ふなおか亭むらさき日記 5月〜断筆

                                                              9月

 

 

2003/6/6rock
くじけそう。文字数超過という表示が出てきて、処理できなくなりました。でも、まあ、ちょっと調べて、なんとか続けて生きます。

 

2003/5/23rock
朝 チーズパン+グレープフルーツジュース
昼 ざるうどん
夜 S山教授の飲み会

 

 ふひ〜、ようやく学術振興会の書類提出も終り、昨夜の研究会も一段落と思いきや、立命館ガチンコ大学院所属のT下さんから電話あり、「S山先生と飲みの約束をしていたのだけれど、ふたりはちょっと怖いから来てよ」というなんとも同情をかき立てられるお言葉に触れ、飲み会に参加とあいなる。楽しかったけれども。S山さんは敵は多いが、決して悪い人ではない。S山さんにセクハラされたという女の子の話も聴いたが、しかしなんか憎めない(その女の子はホントかわいそうだったが。同席者の影響大である)。
 さて、論文さっさと書いて、見てもらいに行かねば。
 最近お勉強さぼりぎみであるからにして。
 『美味しんぼ』の山岡と栗田の結婚式の巻が欲しいのだが、文庫版でどこにもおいていない。注文して買うのもなんか嫌だし、だれかもってませんか。 

ジェレミー・ブレットが主演する「シャーロックホームズ」ドラマシリーズを観まくっている。『おこげ』『きらきらひかる』と、90年代初頭のゲイカルチャーを撮った映画もちょくちょく観た。『天使の楽園』に今日はチャレンジ。

 

 

2003/5/13rock
朝 コーヒー
昼 

 昨日、北大路ビブレで服を購入した。同居人の励ましとともに、断頭台にも登らんとするかのような決意とともに、北側の花屋の前を通ってエスカレーターに乗り込む。風景がコマ送りで見え、女の子の手に握られたソフトクリームが生き物のようだった。なんだか緊張してしまう。服を選ぶのは、僕がもっとも苦手とすることのひとつだ。高校生の頃は、極度の機能主義者で、デザインは周囲にまぎれるような派手でもなく地味でもなくというもの、色は黒か灰色かベージュ、単色が中心という選択幅だった。しかし、そこまでいきつくにも長い道のりがあった。
 
 そもそも僕はひとりで服を買いに行くという経験がなかった。我らがスーパー坊ちゃん高校の生徒たちが、財布に数万円潜ませながら、街中を歩き回って、クローゼットの腹を膨らませ続けるのに対し、僕の財布にはだいたい500円玉が常備されていた。ラーメン代だ。当時好きだったのは、阿部公房と椎名林蔵(林檎ではない)で、さらに加えるならば、つげ義春と井伏鱒二と梶井基次郎の世界に耽溺していた。だいたいにして登場人物たちは、シャレにならないほどみじめであり、物質感に溢れている。梶井の短編で、学生結婚して貧乏している夫婦が描かれていて、朝方すずめが両足を揃えて飛んで、屋根のトタンを叩く音が聞こえるのを、布団の中で妻がくすくす笑っているのを見て(前日に妻はパンの切れ端なんかを撒いていたのだ)、「こいつは貧乏に耐えられる」と夫が呟く場面がある。僕はそのような、場面を偏愛した。

 初めて服を自分ひとりで買いに行ったのは、浪人生の頃、BIG AMERICAという意味の分からん名前で、の若者が夢を投影する店だった。入店、店内物色、店員に挨拶、一周徘徊、また店員に挨拶、店を出る。あれれ、と我ながらショック。僕は服を見たてて買う、という作業がまったくできずに、数人の店員に挨拶して店を出てしまったのだ。なんじゃ、こりゃと、ついつい広島弁もでてしまうわい。要するに、ほんとに服を見慣れていなくて、見慣れている人間ばかりを見て出てきたのだ。このとき、僕は自分の社会復帰の不可能性に直面したのでした。
 
 人間失格

 さて、間ははしょって、人に見られることが凄く嫌いだった(ほとんど病気のごとく逃げまくっていた。でもぜんぜん見て欲しくないわけではなく、自分の見せたいところだけ見てくれる相手を探してはいた)僕は、そんなこんなで、上述の派手すぎず地味すぎずの境地に達したのだった。
 が、数年前、こんな僕の服飾観をドラスティックに変える一言に出会った。その人は服を見立てることが好きな人だった。季節の変わり目に実家から春ものの服が来るまで、ひどく憂鬱そうだったので、「どうしたの」と聞くと、「同じような服ばかり着ていると気がめいるの。社会主義国にいるみたい」。

 なぜだろう。ひどく説得力のある一言だった。「社会主義」という言葉から政治的なメッセージを受信したわけではもちろんなく、彼女が「社会主義」ということでイメージしているものが僕の脳裏に広がり、スターリンがにやりと笑ったからだった。それはリアルな体験だった。色鮮やかな服を着るというのは、それから、僕にとって不思議なことだが、とても大切な儀式になった。ときどきそういう服を着るときの、むず痒さが、水虫ではなく、思春期っぽい感受性をなぜか思い起こさせてくれる。そうしたノスタルジーという面もあるが、交際する人たちや自分の年齢の変化から、派手すぎず地味すぎずの領域がズレたという機能面での変化もある。これは大切だ。

 購入物=パンツ(下着ではない)+長袖のシャツ(身体を覆うものが好きで、夏でもよく着る)

 同居人に感謝。が、学校に行くとIずみくんに「おばさんみたい」と言われる。ちょっと、ショック。しかし、そういえば、母が小学校の参観日に着てきたヒョウ柄のTシャツを思い出し、愕然としてしまった。なっとくなのだ。が〜ん!しかし、負けないぞ(何に?)!

 アスキーを立ち読み。ジャーゴンが少しづつだが、わかるようになってきた(くすくす)。ガタリ『30億の倒錯者』、オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』、『情況「特集 ゲイ・ムーブメント」』を読む。バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』をちらちらと読み始めた。あ〜あ、80年代の雑誌をとにかく読みまくらないと〜。

 

 

 

2003/5//12rock
朝 北大路ビブレのフレッシュネス・バーガーでランチコンボを食べ損ねる
昼 ハンバーガー+オニオン・リング
夜 味噌汁(ごま+若布)+サラダ+豚肉の天ぷら+絹さやとベーコンの炒め物+漬物

 

 ふ〜、最近なんだか疲れ気味。学術振興会とかいうインテリ集団への入会申込書(誤解ある?)をカリカリと書いていることやら、なんやら、いろいろいろいろあって。なんにせよ、きちんと自分の頭で考えることを最近怠っていたので、そのツケだろう。ひとつひとつ考えていくしかない。

 留保することや否定することで自己表現が可能になるとは思わない。「我」が強いことが研究上生き延びていくポイントのように言われるが、だったら別にいいや、と感じてしまうのは傲慢だろうか。批判は誠実に受けたいけれど、批判ごっこにはうんざりだ(Iずみくんはかつて、上方落語的に対置して、ダウンタウン的と称した)。そもそも僕は批判が苦手だし、そういう真似事をやろうとしたこともあったけれど、やめることにした。とくにアカーに電話した瞬間から、その思いが強くなってきた。ひねた人間は好きだが、意図的にひねる嫌らしさは鼻につき、若干苦手だ。アカーの電話対応の人と話していると、こんなことに頭の一部を使っていることさえもったいなく思えてくる。もっとやるべきことはある。Y崎さんと話していてもすごくそれを感じる。

 美味しいご飯を作って食べたい。読みたい本を読みたい。観たい映画を観みたい。近所のおばさんと山に入っていって、山菜を摘んで、佃煮を作りたい。
 昨夜は「やっぱり猫が好き2001」「アメリ」を観た。ビデオ・イン・アメリカの横道を南に30メートルほど下りるとある酒屋が、個人商店のわりにはワインのそろいが良く、1000円前後で美味しいのが飲めた。昔は飲みやすいのが好みだったが、最近は渋いのや酸味のあるのや重たいのがいい。
 ブランショ『文学空間』とホワイト「歴史的知の詩学」を読み、フーコー『作者とは何か?』と『性の歴史1巻』をなんとなく再読。アカー編『同性愛者の国連十年』をようやく読む。

 

 とくに『作者とは何か?』は面白かった。なんの役に立つかは見通し立たないが。『言葉と物』でマルクスやフロイトを使ったために、各方面から批判が来て、「あんたはマルクスを矮小化していてなんにも分かってない」とかなんとかと。それに対して、そもそも「マルクス」や「フロイト」という「作者」の「名」とは一体どのような機能を持ち、どのような場面で言表されるのかを分析したのが、この文章。

 「作者」とは、経験的な一個人を指さない。(ここでフーコーは)サールの固有名に関する議論を参照し、「ソネット集」をもしシェイクスピアが書かなかったとしてという仮想現実を設定しても、シェイクスピアという名と人物との関係は固定されていると示す。しかし、「シェイクスピア」という「名」を「作者」としてとらえるときには、「ソネット集」を書かないという仮想は、「シェイクスピア」に致命的な変化をもたらす。「作者」の「名」は、複数のテクストを囲い込む線=分類機能のようなものだから。

 その機能とは何か?作品との所有関係(18世紀末から19世紀初頭に著作権や転写に関する制度が整備される)。「作者」を産出するための言説を動かす始原的働き(文芸批評→ヒエロニムスのキリスト教会によるテクスト公認のメカニズム)。

 テクストは作者へと読者を誘導する記号をもつ(文法学者はこれに詳しいだろうが)。人称代名詞、時と場所の副詞、動詞の活用がそれである。しかし、そのとき読者が参照する作者とはテクストの外部でそれを書き付けた、あくびもすればおならもする経験的な個人ではない。また、テキストの中の一登場人物やナレーターでもない。数学論文の序文に出てくる自己は、経験的な時と場所で無二の仕事を成し遂げた者であると同時に、同一の公理と予備証明の体系を受け入れれば、いかなる個人でも占有できる証明の契機である。経験的主体と超越論的主体、この二つの間をどちらつかずに移ろうのが、「作者」である。そこには時代時代によって異なる、特殊で複雑な操作があり、テクストの誘導により、個人は複数の場=「主体」を同時に占有しにやってくる(とのこと)。

 ただし「フロイト」や「マルクス」はそれまでの他の「作者」とは、わけが違う。ある学派や潮流を生み出し、反対勢力にも力を与える、忘却されやすい起源として、彼らは考えられる。アン・ラドクリフが恐怖小説の影響を後世に与えたというのは、せいぜいその諸特徴がのちの作家たちに継承されたというに過ぎない。「フロイト」や「マルクス」は、上の意味で、すぐれて「作者=言説創立者」なのだ。 

 フーコーの結論。こうした「作者」は「主体」として読み替えられ、で「主体」から始原的根拠としての性格を奪い、言説の可変的で複雑な機能として分析することが強調される。「作者」はカフカによって殺された。エクリチュールは不死と結びつき英雄たちの叙事詩を語っていたが、じつはエクリチュールは記号間の差異による自律的な領野であり「作者」を必要としない。「作者」は一人称から三人称への移行において、姿を抹消された。カフカが三人称で語り始めたとき、(ブランショも同意するが)「作者」は死んだのだ。それは言語への過剰な同一化によって可能になる。経験的な自己が擦り切れてなくなるほどに、超越論的な主体へと同一化することによって(「わたし」という一人称への同一化)。さらに、言語によって経験的な自己が否定されることによって(一人称から三人称へ)。この亀裂こそが、糞便の落とされる肛門であるだろう。
  

 

 

2003/5/9rock
朝 トマトとチーズのサンドイッチ+筍とニラの炒め物
昼 ざるそば+チャーハンおにぎり+プリン(コンビニ食)
夜 カレー(大豆+とりもも肉+ほうれん草)
夜食 プリン(クリームチーズプリン)+コーヒー

 

 最近、やたらと映画ばかり観ている。昨日は、同居人が絶命館大学日本文学科N川ナルミの授業で発表し、くたくたになり、ケルトからの贈り物T岡先生を囲む、T治さんちの飲み会に参加。T治さんのお父さんの退職記念もかねていて、T岡先生も若干緊張気味。二日連続の飲み会にもかかわらず助手のI部さんはハッスルしてくれました。その隙に、けっこう楽しかったのですが、早めに抜けさせてもらいました。
 で、美空ひばりと江尻チエミが出ている「おしどり千両傘」「おしどり野次喜多」を、「ジャズ大名」を、黒沢清の「回路」を、橋口亮輔の「ハッシュ」を、深田京子と金城武が出ているドラマ「神様、もうすこしだけ!」を、だらだらと観てしまいました。
 夜食は、M3のY崎さんが同居人に手渡した大量のマサラとターメリックを両手にし、カレーをポイエーシスしました。さすがに、カレーをプラクシスすることはできません(やや、ジャーゴン定食っぽいな)。 
 


「  さらに、ジャーゴン定食。ようやく読み返しが終わりつつあるTim Dean, Beyond sexuality だが、なかなか面白い。アメリカでは自我心理学が精神医療において重要な地位を占めている。ヤコブソンに代表される自我心理学の論者は、催眠療法の有効性を主張する。それは、言語を介することのない原初的な関係、情動関係を再現する。そこで、主体は同一化により、対象の特徴を身にまとい、他者の欲望を主体の欲望とする。理想の対象の身振りや仕草が模倣され、その欲望する形式や対象が、主体の欲望の対象となる。一の線としての同一化である。しかし、これは後年ラカンが批判したものであり、フロイトは社会関係に対して、セクシュアリティの経験を対置した。

   セクシュアリティとは何か?Dean はラプランシュのフロイト読解を参照する。セクシュアリティとは、身体が機能不全(インポテンツ 無能力)である状態を指す。成人の身体が生殖器を中心に性行為+生殖が想定され、男性と女性というジャンルが社会関係を構築するユニットとみなされるのに対し、幼児の身体は自体愛の場であり各器官が性感帯になっており、他の人格を必要としない。縁と切断された対象とがあるところ、すべてがセクシュアリティの場になる。目とまなざし、口と声、肛門と糞便、ペニスとヴァギナ、皮膚と汗。身体の一部が切断されることで、それは部分対象、対象a (ラカン)になる。人格全体を代表するのではない、フェティッシュな対象だ。

   精神分析が語るセクシュアリティとは、このように非ジェンダー的なものであるばかりか、非人間的なものであり、人格を愛するのではない対象への愛に関するものである。ここで、ラカン理論はクイアー・セオリーと一致する。市民権を求めて「男性同性愛者」というアイデンティティを運動組織のための戦略的基盤とするのが、エイズパニック期に資金調達と情報伝達をする上ではとても有効なことだった。しかし、新保守政権の下では、ゲイも寛容な国家保護に包まれ、そのポテンシャルを裂かれている。ここでクイアー・セオリーが主張するのは、ゲイのセクシュアリティがアイデンティティをもたないというラディカルさなのだ。セクシュアリティとは、つねに倒錯的なものであり、美学的に昇華されうる。人間と人間の関係ではなく、美術作品と眼球との関係、指とアナルとの関係がそこではとりあげられる。ラカンが船に乗っていたとき、沖に浮かぶ光るものを指して「あれはなんだ」と問うと、船乗りは「あれは缶だ。あれはお前を見ている」と語った。人間ではないものに見られるとは、このような対象a との関係であるだろう。ワシントンD.C.のAIDSメモリアルキルトを見るとき、追悼される無名の人々の顔と経歴とを前にするとき、あるいはバスハウスでの乱交する身体と身体との関係に参入するとき、わたしたちはこのような対象aとの関係に密接していく。

   アメリカ心理学が同性愛を正常化するのにたいし、フランス精神分析は同性愛をセクシュアリティの構成要素とする。いやむしろ、ホモセクシュアルこそがラディカルにセクシュアリティを体現しているのだ。アイデンティティがないということ、自己無化するということ、リスキーなセックスの中に自分を喪失するということ、これがゲイのポテンシャルである。アナルセックスと乱交。ベルサーニならこの行為それ自体に固執するところだが、Dean はホモセクシュアルを美学的な経験として普遍化する。それは、わたしたちへテロセクシュアルにも利用可能な生/性の技法なのだ。そして、わたしたちは、ヘテロセクシュアルではなくなっていく。

   ゲイ・セオリーとカラン理論との接合によって産出されたこの非人間的な関係を、僕たちはどのようにして使っていくことができるだろう。使う、あるいはそのような関係に巻き込まれる、と言うべきだろうか。対象a は、いつも偶然に、分割された主体をさらっていくのだから。

   僕が思い出すのはセラピー言語であり、それを口にする人たちの息苦しい倫理主義である。運動体の中で、他者への共感と社会変革を訴えるのも息苦しいし、会社で人的資本としてブラッシュアップを続けるのも息苦しいし、それが倫理的な言葉で補強されるのはなお息苦しい。資本制が、剰余価値を生産する労働力に寄生するとき、グローバルな競争に曝された諸個人が頼るのは、国民国家の物語を再生させ民族共同体を語る空間しかないのだろうか。労働力の国際移動により都市に居住するサン・パピエと紛争によって生活空間を奪われた難民が、市民権や人権の概念を塗り替えようとするいま、アイデンティティによらない人間であることすらも関係しない美学的な関係が、やがて来る共同体を見通させてはくれないだろうか。」

 

 

2003/5/6rock
朝 トマトと卵焼きとチーズのサンドイッチ半身
昼 同上半身
夜 穴子の丼(大葉のせ)+味噌汁+たくあん

 

 ちくしょう。と口汚くついつい罵ってしまう。友人Iずみくんから、姉妹定食ハーゴンへのリンク張りが失敗に終ったことを聞く。間違ったアドレスをハーゴンに送りつけてしまった。したがって、ここに来たことがあるのは、いまだ同居人とIずみくんだけなのだ。ま〜さみし。そこはかとなくつらいきもちです。
 アンドリュー・ヒューイット「敵と寝ること ジュネとホモファシズム」を読む。市野川容孝もまとめて読み返す。サスキア・サッセン『労働と資本の国際移動』とハーヴ・カチンス『精神疾患は作られる DSM診断の罠』とフーコー『精神疾患とパーソナリティー』とリード『魂から心へ 心理学の誕生』をあわせて読んでみた。ちょっと読書の日。後藤浩子「グローバル時代のシティズンシップ」もさっき読み終わった。うぎゃー、パンク。
 ブルース・ラ・ブルースの映画「ノー・スキン・マイ・アス」を観た。一年前からAむどうさんに借りていたので、これでようやく返せるかも。

 

 

2003/5/4rock
朝 トマトソースのパスタ+賞味期限切れコンビニおにぎり(高菜)
昼 レトルト・ビーフシチュー+賞味期限切れコンビニおにぎり(高菜)+韓国産とうもろこし茶
夜 あなご丼+そば風汁物+ミンチかつ+からあげ+キャベツと大葉のサラダ

 

 今日は、バイトなし。お金もなし。朝から映画『ティコ・ムーン』を観た。フランスの人気漫画家が自分の漫画を映画化したもの。前作の『バンカー・パレス・ホテル』の方がよかった。ひさびさジュリー・デルピーをおがむ。
 朝食は同居人とふたりでパスタを茹でた。塩をたっぷり使って、アルデンテで茹で上げる。友人Iずみくんからもらったおばあちゃんの筍をみじん切りにして、豚ひき肉と炒める。醤油+酒+オリーブオイル+黒胡椒+塩+バターで味をととのえてみると、不思議ないい味に。最後にバジルを大量にふりかけて、いただきます。ごちそうさま。
 たまたま昼間に外に出たら、千本閻魔堂で狂言をやるとのこと、壬生とならんで有名なこいつをみてやれと、ちょっと見てたら、お腹がいたくなってきた。トイレを探して、閻魔堂の奥に入っていくと、まかないを調理している5人くらいのおばちゃんにしげしげと見られ、スノコの上をとたとたと歩いて、なにやら古びた木造の迷路に迷い込んだような按配に。トイレは電気こそないものの快適でした。洗濯物などが干してある裏庭に木漏れ陽が差しこむのは、キアロスタミの『友達の家はどこ』を思い出させるノスタルジックな趣です。
 朝、何人かの友人たちにホームページ作ったとうそぶいたものの、恥ずかしくて、アドレスも教えぬ次第。もうちょっとましな作りにしてからね。。。
 閻魔堂で「道成寺」「牡丹獅子」「千本切り」を観た。狂言ってコメディですね。
 そのいきおいで、えたいのいれない夕食をとったあと、『ラビットレース』を観てしまう。ローワン・アトキンソンの存在感が少し薄くなっていた。200万ドルを追っかけるラスベガス発のレース(じつは参加者それぞれが馬役になっていて富豪たちが賭けている)。馬役のうちの家族が、バービー館に入ったら、ナチのバグビーで、ヒトラーのベンツを盗んで逃走。車の中をいじっていたら、父親がライターに触れて、やけど、中指を吐き立てると、そこにダイクのバイク乗り。「わたしはバイクが好きです」と言おうとしたら、あせって「ダイクが好きです」と発言。ダイクのバイク集団に袋叩きに合う。そのときライターが飛んできて、父親の口に入り、舌火傷。そのまま突っ込んだところで、「みなさんにすべてご説明するのよ」と頼まれ、スピーカーに向けて壇上で話し始めると、そこが退役軍人の会。鼻の下に暗い口紅をつけて、ヒトラー似になり、火傷の舌で中指立てて口を開くとドイツ語のような固い響きの音が出る。軍人の一人が彼に向かって、わなわな震えながら発砲、という始末。
 いまから落語「幼名」を聞いて寝よう。

 

 

2003/5/3 rock
朝 なし
昼 なし
夜 うどん&三つ葉添え+コンビニおにぎり賞味期限四日切れ+冷酒


 今日はひさびさバイトです。気がつくと財布に300円、同居人にお金をかりるわけにもいかず、株式会社グロバルという、ちょっぴり口にするのがはばかられる派遣会社に、引越しバイトに派遣されてしまう。自転車撤去に怯えて、スーパーに不法駐輪。自転車置き場作んない市政に問題ありなのだ、と猫のマリーに言ってみる。
 古くて倒壊目前のお家から、二百メートル先にある古くて倒壊リミットあと5年のお家まで。なんだかひさしぶりの肉体労働で、化石化寸前の冷蔵庫をYくんとふたりで持ち上げたときに、ライフポイントゼロに。マジックポイントもさがりつづけ、働きもので仕事もできるYくんとのコントラストっぷりを発揮。われながら同じ給料とるのは給料泥棒かも、と思い、なんだが、人の見ていないところでハッスル。見ているところではゲッソリ。んん、意味ないかも。引越し先の地図を見せられ、お客さんに近くでしょうかと聞くと、「10メートルや」と言われ、「ん?10メートルですか、近いですね〜」と叫んだら、「んなわけないやん」と嘲笑されまくりました。車から門までが「10メートル」という会話の流れに乗り遅れ、旧居から新居の距離と勘違い(いやそれ以前の段階か)。にしても、10メートルだったら、引越したのまないよ、と自分で自分におバカさんのレッテルを張り付けまくってみました。
 Michael Waner の Why gay men are having risky sex ?  と、キース・ヴィンセント「大江健三郎と三島由紀夫におけるホモファシズムとその不満」を電車の中で読んだ。
帰ってきて、同居人と一緒に鰹と干し椎茸で出汁をとり、醤油と塩で調味し、うどんを食べる。三つ葉を添えるとすごく春らしくなり、えがったなぁ。F田さんがコンビニのバイトで入手してきた、Sイレブンのおにぎり(高菜+椎茸昆布+ツナマヨ)を暖めて、ふたりでツマム。ありがとうF田さん★ 僕は日本酒を冷で少しだけいただきました。帰ってきたら、同居人が三味線で、モスラを演奏していて、モスラシスターズがとても懐かしくなりましたが。
 映画「ディナーラッシュ」観る。
『ボヴァリー夫人』と『マダム・エドワルダ』を読んで寝よう。

 

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