現在姿をとどめている軍艦防波堤防波堤「柳」についての文書を手に入れました。

このページにも、軍艦防波堤の慰霊碑の写真などを加えました。


以下は、軍艦防波堤について伝えている貴重な文献資料です。なかなか読み応えのある文章ぞろいなのですが、残念ながら一部には間違いもあります。それは以下に指摘しました。それを割り引いても、特に「冬月」「涼月」については良い文章ですのでお読み下さい。
 
本文はこちら 間違いのある部分はこちら
◆◆◆◆◆部分です
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1番
2番
3番
4番
柳と同じ時期に防波堤になった艦船

私はMさんという方から、文献に載っている事と異なる指摘を受けました。
文献の説とMさんにいただいた訂正とでは大きく異なっています。
◆◆◆◆◆が下の方に4個所あります。そこが問題の記述です。ご覧ください

最初に私の意見を言いますと、
Mさんが正しく、
文献は間違っています
間違った記述を誰かが最初にして、
それを引用し続けた伝言ゲーム的結果でしょう。

なぜなら、私のページに写真を掲載しているように、「柳」の艦尾は
どう見ても「大破」や「再起不能」の状態に見えないのです。
これは、今日会ってきた市議会議員のMさんも同感とのことでした。
地上に見えている部分でしか言えませんが。
はっきりとした艦の形を保っています。
また、下に続くいくつもの資料の記述は、どれもこれもどこか似通っているのです。

それに何より、青森で大破した船を、恐らくは沈みかかったか、沈んでいた船を
何で はるばる 福岡まで 引っ張ってくる必要があったのでしょう。戦後の大変な時期に。

どう考えても不自然です。どう見ても、Mさんの言う通りだと思います。
後に、Mさんからまたご指摘が届きました。
 
二代目の、要するに「太平洋戦争に参加した」柳は、
大湊近くの海岸に座礁した写真が幾枚もあり、大湊で
解体されたのは間違いありません。
また、私のページで見ていただけると、艦首部が垂れ
下がってしまっている状態の写真が(だいぶ下の方に)
有りますが、この艦首形状は大正期以前の旧式艦特有
のものです。若松区の柳は初代に間違いありません。

では、これを誤って伝えている諸文献に訂正を要求
するべきか?というと、実は私はその必要性をあまり
感じません。特に現在は誤った情報の方が圧倒的に多
く、中には慰霊碑という扱いの難しいものにまで記さ
れている事に訂正を要求するのは大変だと思うのです。
今回、看板修理が近く行われる気配なので急ぎ御連絡
しましたのは、公表されている情報の正誤比率を少し
づつ逆転させていく良い機会とも考えたからです。
実際の経緯を説明した新看板や、抹茶様や帰山様や私
のページなど、少しづつ正しい情報を増やしていき、
それをご覧になられた先方が改められるのを待つしか
ないと思っています。
それでは。今後もご活躍下さい。
 

正誤に対する態度として、貴重なご意見で私も賛同しています。

これらの正誤は、「涼月」「冬月」のようにコンクリートに埋められていないから、
目で見て、手で触れる状態だから実証できることでしょう。
コンクリートで埋められていたら、間違った世間の説がそのまま通っていたことでしょう。

以下は私の持っている文献を総て読み込んだものです。
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軍艦防波堤関係資料
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若松高塔山 忠霊搭横にある「駆逐艦 冬月 涼月 柳 戦没者慰霊碑」の碑文より抜粋
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◆◆◆◆◆
昭和二十年一月十八日
大阪藤(?By抹茶)永田造船所にて竣工
昭和二十年四月
沖縄特攻作戦出撃直前に編成よりとかれる
昭和二十年六月
日本近海において敵潜水艦索敵掃討中、敵潜水艦一隻撃沈
昭和二十年七月
津軽海峡において米艦載機百数十機の攻撃を受け艦尾を大破大湊港外に欄座
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(BY抹茶。

この石碑は、若松の高塔山中腹、忠霊塔の横にある、軍艦防波堤三隻のための慰霊の石碑です。
左は上の拡大写真。柳が「津軽海峡において・・・大破」とあります。が、しかし、、、、

何しろこれは、立派な石碑に刻まれている文章ですから、 間違っているとすれば大変です。でもやっぱ、違いますよね。艦尾は今も大破してないと思います。)
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おもしろ地名 北九州事典 増補総集版 1977−7−30 著者=瀬川負太郎 発行所=文理閣 ¥1700+税

防波堤代わりに座礁させられた駆逐艦「柳」 (写真ありby抹茶)
以下引用
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 安瀬(アンゼ)
若松運河にかかる響灘大橋、通称青い橋を渡った響灘臨海造成地―帯。安瀬とはいうが、も ともとは暗礁の意であり、暗瀬である。
 戦後の1948年、北西風の波浪から洞海湾口の航路を守るために、廃艦となった軍艦三隻を沈めて西防波堤をつくった。その軍艦が太平洋戦争の末期45年4月、沖縄へ片道燃料の持攻 出撃をした戦艦「大和」の護衛艦「涼月」「冬月」、◆◆◆◆◆また津軽海峡の戦闘で座礁した「柳」。そこで軍艦防波堤が通り名になった。
 その後の埋め立てで防波堤は岸壁となり、2隻は埋没してしまったが、「柳」だけは現在も 辛うじて艦形を保っている。
 いわば軍艦の墓場でなんだか悲しい。この沖には陣地と呼ぶ離れ瀬もあったが、埋め立て地の中に消えて跡形もない。
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北九州の史跡探訪(知的なレジャーのために)p110
H2.9.1
北九州史跡同好会 著
福岡自費出版センター 版
以下引用
原文には写真あり
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安瀬地先にある防波堤は軍艦防
波堤と呼ばれ、かつて旧帝国海軍
の駆逐艦「涼月」「冬月」「柳」
の三隻がその礎石となっている。
いずれも太平洋戦争で活躍した歴
戦の駆逐艦であった。
「涼月」「冬月」は昭和二0年
四月最後の沖縄突入特攻作戦「大
和」の護衛艦として参加したが
大和の沈没で作戦は中止され
「涼月」も艦首に爆弾を受け五島
列島の奈留島に引き返す、「冬月」
も死傷者を出し佐世保に引き揚げ
た。
◆◆◆◆◆「柳」の(ママby抹茶)青森県大湊港を基地に
北の守備についていたが、昭和二
十年七月に鑑載機に襲われ船尾を
破壊され再起不能となった。
いずれも終戦を迎えたが、生き
残った旧海軍艦艇のうち大型艦は
解体、駆逐艦以下は連合軍に引き
渡された。その他は解体されたり
各地で防波堤に利用されたりした。
「涼月」「冬月」「柳」の三隻
も昭和二十三年沈められ、洞海港の
防波堤になった。
現在軍艦防波堤付近は埋立が進
み工場地帯の一部となり、また好
釣場となっているが、この場所が
かつては駆逐艦による波止場であっ
たと知る人は少ない。

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「新北九州風土記」朝日新聞西部本社刊 S49,1,20
A・I氏よりいただいたコピーより以下引用
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軍艦防波堤

    不死身艦の最後

洞海湾の入口、若伝区安瀬町の地先にある堤防は、"軍艦防波堤"とも呼ばれている。 旧帝国海軍の駆逐艦「涼月」「冬月」「柳」の三隻がその礎石となっているからだ。いずれも、太平洋戦争で活躍した歴戦の勇者たち。
 涼月、冬月は同型の姉妹艦。戦争二年目から活躍した「秋月」級十二隻に属する当時の最 新鋭防空駆逐艦。戦備排木量三千五百トン。敵のB17爆撃機に対して威力を発揮した十センチ高角砲八門を備えていた。両艦は二十四年四月、最後の沖縄突入特攻作戦に、戦艦「大和」の主力護衛艦として参加、その両側を守っていた。大和の沈没で進攻は中止されたが、涼月も艦首 に爆弾を受けて八十人の戦死者を出し、後ろ向きに走って五島列島の奈留島に引返すとい う離れわざを演じた。一方、冬月も 十二人の死傷者を出して、傷心の身を住世保に引揚げ た。
◆◆◆◆◆
柳は二十年一月に建造された千二百六十トンの小粒精鋭艦。青森県大湊港を基地に北の 守りについていたが、終戦間ぎわの七月十四日、津軽海峡で敵空母艦載磯に襲われ、艦尾を 吹飛ばされて再起不能のまま終戦を迎えた。復員輸送が一段落した昭和二十二年夏、生残った旧海軍艦艇のうち、大型艦は解体、駆逐艦以下は賠償として米英中ソ四国に引渡された。そのほかの重傷の艦艇は解体されたり、各地で防波堤に利用されたりした。涼月、冬月、柳の三隻も昭和二十三年、沈められて洞海港の守りについた。
 この時、各地の港で沈められた十数鹿の中でも、この三隻は指折りの不死身艦だった。と くに涼月は、十九年一月、ウエーキ島に向う途中、宮崎県延同沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受 け、前、後とも破壊、十月には台湾に向う途中、再び魚雷で艦首を切断された。冬月も同じこ ろ、フィリピンに向う途中、遠州灘で潜水艦に襲われ大破した。それが、ともに生返って大戦の最後までつとめを果したのは、当時のすぐれた造船技術によるものだといわれている。
 軍艦防波堤付近は響灘でも好漁場の一つ。釣客がしょっちゅう姿を見せているが、数年前の台風でこわれた時、コンクリートで塗固められ、いまは軍艦の跡は見えなくなった。釣客 でもそのいわれを知る人は少ない。
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◆◆◆◆◆部分は終わりました。以下資料続く
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若松信用金庫創業60周年記念「若松昔今」若松信用金庫発行S58
以下引用,原文には写真あり
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軍艦防波堤
昭和25年響灘の風波をさけ
るため港口に西防波堤を築
造することになり、旧海軍
駆逐艦3隻を沈設してつく
った。
軍艦防波堤の
響灘工業用地ができるまで。
第2次大戦で、活躍した柳
(1,625トン)、涼月(2,701ト
ン)、冬月(2,701トン)の3
駆逐艦の姿が見られた。
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若松市史第2集(非売品)P,739
S34.4.30発行
福岡県若松市役所発行
以下引用
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(5)防波堤
北西の風を避けて洞海湾に出入する船舶を安全にするため、港口に防波堤を築造した。設計当時、延長二、七二四米、混凝土
塊をあてる予定だったが、明治三十五年花崗石二O才以上を使用する設計の変更を申請した。三十九年、漁船の通路として防波堤の中間を三六・三米、間をあけることを申請し、明治三十九年九月に竣工した。
大正七年、浜町公有船入場の設置に際して、
さらに一O九米を取毀して船舶通路にあてた。戦後、響灘の風波をさけるため、
港口に西防波堤を築造することになり、旧海軍
駆逐艦三隻を沈設した。残余は方塊をもって当て、昭和二十二年から着工して二十七年に
完成した。この防波堤は軍艦防波堤と
呼ばれている。また北防波堤・北湊防波堤の構造及び現況は次の通りである。

(表の一部を抜粋By抹茶)
名称=西防波堤,
管理者=洞海港務局,
延長=七〇〇米
構造/様式=方塊積 四一〇米 コンクリート
様式=沈船式 三〇〇米 沈船三隻現状/良好
適用/二五年 一〇〇米
二六年 一五〇米
二七年 完了

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「帝国陸海軍現存兵器一覧」作者K様からいただいた情報

柳と同じ時期に防波堤になった艦船です。

矢竹(未成)  八丈島神湊
桂(二代・未成)福島県小名浜港
澤風      同
栃(未成)   秋田港
竹(初代)   同
春風      京都府竹野港
汐風      宮城県女川港
蓮       福井県四箇浦港
平戸(初代)  岩国港

澤風のタービン機関は小名浜港で記念碑になっているそうです。

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2000−04−08 K様よりの資料追加

2000−01−27抹茶

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