三国の中で曹魏はもっとも強力な勢力であった。兵力も整っており、中原という地の利を得ていた。また、皇帝を掌握していたために、天下の主導権を握る立場に立てたという点もある。だが一番の強みは人材の多さであった。正しく言えば人材の活用法であったといえるかもしれない。三国の中で一番官制の整備が進んでいたのは魏であった。有能な官吏を登用することや、登用した官吏を効率的に使うためのシステムが極めて発達していたのである。呉は封建制のような豪族の寄り合い所帯であり、蜀はトップのワンマン経営の性格が色濃い。
何故魏だけが突出して進んだ官制を持ち得たのであろうか? 無論、曹操の政治的センスもあるのだろうが、ここで他の戦乱を見てみたい。前漢の高祖に仕えた蕭何は秦の国都・咸陽に入城するなり、秦の丞相府の文書を押さえたという。また、唐の李世民が同じく隋の国都であった長安に入城したとき、多くの文書を手に入れたそうだ。曹操は後漢の丞相であった。つまり、彼は強奪せずとも上記の二例と同じアドバンテージを得ることができた、そして事実として得ていたのであろう。
三国のそれぞれに清流派知識人たちは参加しており、後漢の大まかな官制は各国ともに知っていたであろうが、官制だの軍制だのというものは基本型では実用に耐えないものである。官僚制は徐々に特に末端部においてアレンジや変更が加えられ、ようやく実用に耐えうるものとなる。そして、実際の後漢官僚制をそっくりそのまま手に入れたのが曹操であったわけだ。このアドバンテージは地味ではあるが青州兵や烏桓・鮮卑騎兵の編入以上に効果的であったと思われる。
完成された官制は、それが整備し続けられている限り大きな効果をあげる。また、数々の現実と直面してきたという事実はその制度の耐久力を表す。すなわち国家体制という要素において魏は他の2国を大きく引き離していたと言えるのである。トップに数人の補佐役がついているような呉や蜀と違い、魏では専門職の官吏がそれぞれの担当職務に精励していた。多人数の才能を活用するという意味で魏の官制の方がはるかに効率的であろう。
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