レコンキスタと一口に言われるが、これは「レ・コンキスタ」つまり再征服ということを意味し、イスラム勢力に征服されていたイベリア半島を、キリスト教国の手に取り戻そうという運動であった。
この時期におけるイスラム諸国と西欧キリスト教国には決定的な文明程度の差があった。無論言うまでもないが、西欧キリスト教国はイスラム諸国に比べれば野蛮人の国にも等しかったのである。事実、アルハンブラ宮殿のごとき壮麗な宮殿も、バグダードのごとき世界的都市も西欧には存在しなかった。
アラビア商人は紅海を押さえ、シルクロードを作り出し、東西の文化圏を自由に行き来した。これに比べれば西欧の商人などせいぜいバルカン半島までを行き来するだけであり、国際的という言葉とは程遠い活動しかできなかったのである。学問的には、古代ギリシャ世界の哲学・数学・地理学その他様々な学問を継承し、高度な科学を有していたイスラム諸国に比べ、西欧勢力は古代ギリシャの学問を異端とし、教会勢力が頑ななまでに学問の振興を妨げていた。
実際、19世紀のナポレオンが戦争に強かったのは新戦術を作り出したのではなく、古代ギリシャ世界のアレキサンダー大王の戦術を模倣・応用したからであったのだ。逆にいえば戦術の分野において見てみれば西欧は19世紀まで過去を取り戻す事しかできなかったと言える。
歴史的には十字軍を、「結果的には、イスラムから文化を吸収するために行われた」と言っても差し支えないような行動であった。西欧版遣唐使と言ったところか。レコンキスタは正式な十字軍として数えられてはいないが、行われた理由や実質的行動から十字軍と呼んで差し支えないものである。レコンキスタが十字軍に数えられなかったのはおそらくあまりに長期間に及び、とても一回の出兵として数える事ができなかったからであろう。実際100年近く続いたレコンキスタは十字軍の1つというより、もう1つの十字軍運動と呼んだほうが適切な規模であった。実際、占領地をそのまま生活圏に組み込んだのだから、ある意味では十字軍より十字軍的であったとも言えるかもしれない。
レコンキスタの根拠地は主にイベリア半島北部の山岳地帯であった。この辺りはたいした都市もなく、肥沃な大地でもなかった。つまり、征服者であるイスラム教徒にとってみれば征服する価値もない場所であり、統治もおざなりな状態であった。反攻勢力は山岳地帯という地の利もあるこの北部に集結し、原住民と逃亡してきた西ゴート人による反イスラム社会を形成していったのである。
イベリアのイスラム教国、後ウマイヤ朝の政局の混乱による自壊も手伝って、反イスラム勢力の勢いは一気に高まった。1064年には現ポルトガルのコインブラが、1085年には半島中心部のトレドがキリスト教国の手に取り戻された。ここで、イベリア半島対岸の北アフリカからムワッヒド朝の軍勢が参戦し、レコンキスタ勢力とイスラム勢力は激戦を繰り広げる事になるが、1212年を境として形勢は一気にレコンキスタ勢力に傾き、半島の南端部のナスル朝グラナダ王国を除いて半島のイスラム勢力は一掃されることになった。
レコンキスタの諸勢力が争ってイスラム領を征服していった結果、イベリア半島は結果的に20数カ国が乱立する混乱期を迎える事になったが、代表的な国であるカスティリヤ王国とアラゴン王国のイサベル王女とフェルナンド王の結婚による統一、すなわちスペイン王国の誕生により収拾されレコンキスタはまず一段落をむかえるのである。一段落と言ったのは訳がある。後に続く大航海時代もまた、レコンキスタの流れをくむ運動だからである。すでに国土は回復されていたものの、対岸の北アフリカにイスラム勢力が居座っている以上、安心はできない。これに対抗するために同盟者「プレステ・ジョアンの国」を探し求めるというのが大航海時代の根本の理由であったからだ。結果として、新産物の発見、国力増強を促したが、起点はレコンキスタの延長であった。

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