ひらひらの

小説



ひらひらの





〜プロローグ〜



「はぁ・・・・・」



雪枝は深くためいきをついた。

街は赤と緑の極彩色に包まれ、通り沿いの街路樹には、

さまざまな色を放つライティングが施されている。

その楽しげな雰囲気の中を歩く雪枝の足取りはひたすら重く、

目的の駅に着いてからもう1時間も経っていた。

バックの中では、先ほどから何度も着信ベルが響いている。



「分かったわよ。行くわよ・・・」



誰に話すでもなく、自分に言い聞かせるように

携帯をにらみつけながら、雪枝は歩いた。

ちょうど2ヶ月前、付き合っていた真一から突然プロポーズされた。



「仲人は、森専務に頼もうと思ってる!」



少し上気した顔で嬉しげに話す真一の言葉が、

今、雪枝の心に重くのしかかっていた。



《どうしてよりによって森専務なのよ・・・》



雪枝は森が苦手だった。

入社してすぐ、仕事上の失敗を陰湿に何度も叱責されたこと。

舐め回すように人を見ること。

話す言葉の合間に、ぴちゃぴちゃと音がすること。

そして何より、すれ違った時の匂いが嫌いだった。

体臭とタバコ、

そしてそれを誤魔化すためにつけているオーデコロンの甘い匂い。

入り混じった悪臭とも言える匂いに、

雪枝は毎回鳥肌が立つ思いでいた。



《真一だってタバコは吸うけど、あんな最悪な匂いはしないわ。

それに2回も離婚してるのよ。そんな人に仲人だなんて・・・

そういえば・・・

先月退社した和美先輩も、専務を見るたび真っ青になって嫌ってたな・・・》



「でも・・仕方ないかぁ。 真一の将来がかかってるんだもんね・・・」




真一は、入社してまだ数年だというのに、

何軒もの大口顧客を任されていた。



「俺さぁ、雪枝と付き合うようになってからツイてるんだよな!

うるさ型の森専務にも気に入られてるし、雪枝はアゲマンかもな!」




笑いながらそう話す真一に

森の仲人ではイヤだとは、どうしても言えなかった。

下を向いてブツブツ言いながら歩いていた雪枝の目の端に、

森の家の前で待っている真一の姿が見えた。

時計は、約束した時間から20分過ぎていた。

真一は待たせた雪枝に怒りもせず、



「良かった・・無事で・・・」



と一言だけ言うと、赤く冷たくなった手で雪枝を引き寄せた。

雪枝は心に引っ掛かった小さなささくれを話すチャンスを失った。



「いやぁ!良かった! めでたいなぁ!」



したたかに酒を飲んだ森が、先刻から同じセリフを繰り返していた。

「仲人は快く引き受ける」と言われた真一は、

勧められるままに杯を重ね

雪枝がこれまで見たこともないほど酔っているようだった。



「今日は愚妻が外出してるもんで、ろくなもんがなくてすまんな」



森は相変わらず上から下まで舐め回すように雪枝を品定めした後、

しつこく飲むように勧めてきたが、

明日も仕事なので・・・と雪枝は断った。



森の家を訪れてから既に4時間、

雪枝は時計を気にしながら真一を突いていた。



「ねぇ・・もう おいとましなきゃ・・・」



小声で言ったつもりだったが、

向かいに座っていた森がすぐに反応した。



「あぁ・・ そうだね、もうこんな時間か。

でも・・・真一君、立てそうにないなぁ。 なぁ!真一君!!」




森が唇をぴちゃぴちゃさせながら近づいて来て、

真一の肩を軽く叩いた。

確かに真一は、小一時間も前から

テーブルに出された出前寿司の前に顔を突っ伏したままだった。

ろれつの回らない舌で



「だいじょぶっす。せんむ ありがとーございまふ。

きょうは ほんとに だいじょぶっす」




と言ったきり、深く眠り込んでしまった。



「もぉ! 真一ったらぁ! しっかりしてよっ!」



真一をしきりに揺すりながら困惑する雪枝を、

わざと見ないようにして、森が低く言った。



「もうこんな時間だし、今夜は泊まっていったらどうだい。

使ってない部屋はたくさんあるんだ」




居間の柱時計から、ボーン・・・と重く、

1時を告げる鐘が鳴った。