

阿波池田→大豊→不入山登山口→四万十源流→東津野→大正→江川崎(ここまでレンタカー)→松野(鉄道)
・徳島県
池田町、山城町
・高知県
大豊町、本山町、土佐町、吾北町、池川町、吾川村、仁淀村、東津野村、梼原町、大正町、十和村、西土佐村
・愛媛県
松野町
この先からこの旅行最大の試練が始まる訳ですけど、ここでちょっと息抜きを。
今、Winampでこの前手に入れたAirの「夏影」という曲を聴いているんですけど、結構オススメ。基本的にKeyの出している折戸、久弥、麻枝らの三部作は音楽、シナリオが特に優れていて、その中で最新作のAirの場合、音楽に関しては文句の付け所がない出来だと思います。
「夏影」を聴いていると、今回の旅行を思い出してしまいます。特に江川崎の集落をさまよい歩いた時なんて、まさにBGMは「夏影」がぴったりくるでしょう。
midiを拾ってここで流すという事も出来るかも知れませんけど作者に確認を取ったりするのが面倒くさいし、HPに曲を流すというのは基本的に嫌いなので各自興味があれが探してみてください。フリーのMIDIが結構あちこちに出回っています(出回っている変わりに「はずれ」も多いが)。もしもどうしても見つからないけど欲しいというのなら、メールを送っていただければMP3をお送りします。ただし数MBの大容量になるので覚悟をしてください。
まあ、こんなところで旅の続きを見ていきましょう。
今回の旅では私は恐ろしいまでに酷道の経験を積んできた。四万十源流ではこれまでかつて見たことのないような悪路も見てきた。しかし、この旅で最悪の道、二度と通りたくない道を一つ選べと言われたら私は迷いなく答えるであろう。「ヨサクの檮原、大正間」と。
四万十源流から山を下りると国道197号線に出る。宇和島街道国道197号線は通称イクナ(行くな)と呼ばれ、坂本龍馬脱藩の道として有名ではあるが、かつては布施ヶ坂などの難所があちこちにあり、四国の3ケタ国道っぷりを思う存分さらけ出していたらしいが今ではトンネルが通ってそのほとんどが快適な2車線道路となった。儂が通った東津野村でも常に道路は二車線で、ヨサクとは月とすっぽんであった。
さて、しばらく走ると矢筈トンネルから走ってきたヨサクと合流する。ちなみにこの辺りには日本三大カルストの一つ、四国カルストという四国のもう一つの名所がある。天狗高原という場所である。矢筈トンネルを抜けるとすぐなのだったが、四万十源流に行ってしまった為に今回は行く事が出来なかった。そういえば高校時代に授業中にちらっとしゃべった事を平気で試験に出す極悪地理教師K氏が四国カルストのマニアックぶりを話していた事を思い出す。地元のタクシードライバーすら知らなかったというとんでもない場所らしいが、今では綺麗な林道が走っていて観光バスでも入る事ができるらしい。勿論観光バスがヨサクから行くのは95%不可能だが。
ヨサクと合流して2,3kmもしないうちにヨサクは再び単独区間に突入して大正町へと向かう。そしてこの区間こそがヨサク最凶の区間となる。
道は先ほどの四万十源流から流れる四万十川の支流、檮原川に沿ってひたすら下るだけなのだが、道は崖と川に挟まれて断崖絶壁のカーブが連続するという厳しいコースである。しかもーこれが一番厄介な事なのだがー距離が長いのである。東津野〜大正で40kmほど、この区間のほとんどが危険な1車線区間なのである。
この区間は二つの部分に分かれる。東津野〜檮原と檮原〜大正である。
前半の区間では、渓谷であるせいか、釣りの車が1車線の道路のあちこちに止まっていて、あるいは釣りの車が帰り始めている時間であったので結構車と出会う回数が多くて苦労した。しかし、この辺りはまだそれほど酷い道ではない。いや、酷いのは酷いが心理的には前の大峠や吾北町小申田などと変わらない。
儂が根を上げたのは、この次の檮原町から大正町にかけての区間である。まず、大正町から酷道区間がずっと続いているという事が大きかった。檮原町に入って一瞬ではあるが、気象規制区間を抜ける。この時に安心してしまったのもつかの間、すぐに檮原川の最悪となる渓谷沿いの道路が始まったのである。
右
左
大きく右
鋭い左
九十九折り〜
最後に左へスプーンカープ
こんな調子のいいカーブのパターンが続くのである。無論1車線である。これほど疲れる事はあるであろうか。大正までの最後の20kmこそが儂への試練であった。見の越の様に細かい間隔で残りの距離が表示されるがその数字を見るたびにため息がでる。
「まだ24km・・・22km・・・まだ20km・・・」
酷道における距離の感覚は都会のそれとは全然違う。走った割に、飛ばした割に距離は伸びていないのである。道はうねうね曲がりくねっていて直線距離で数十メートルっていう所を数百メートル進まないとたどり着けなかったり、あるいはヨサクお得意の綺麗な道から騙しの酷道への変貌があったり、兎に角冗長に感じる区間なのである。

これはその中の一つの集落内の写真であるが、道の酷さはこんなものではない。前にも言ったと思うが、本当に酷い道の写真は存在しない。写真を撮る暇すらないのだから。
大正より、次は江川崎へ向けて国道381号線を走るのだが、まずここで異変が起こった。ヨサクから381へ分岐するとまず四万十川を渡るのだが、その橋で車の角を橋の縁石に接触させてしまった。通り過ぎるヨサクの表示を見ていたせいである。運良く傷なども無かったので胸を撫で下ろしたのだが、今思うとこの事件こそがあの惨禍の前触れであったのかもしれない。
381号線は一部を除いてトンネルなどのバイパス整備がなされており、酷道ではなく国道と呼べる非常に走りやすい道である。その為、急いでいた儂は常に70〜80kmの高速運転をしていた。江川崎まで20km、国道であればそれほど遠くない距離である。
しかし疲労は明らかにたまっており、気が付くと車線の端に寄っていたりした。しかし、江川崎までは我慢、我慢。そう思っていたのだった。もう少しで江川崎に着く。そうすればユースに連絡を取って、今日一日のロングランを自分で誉めてやることが出来る。ルームメイトに今日手に入れた四万十源流の水を見せつけて自慢してやろう。ひょっとすると自分の他にもそんな奴がいるかも知れない。
ところが最後の最後に難関が待ちかまえていた。大正の次の町、十和村と、その次の西土佐村の境にとんでもない酷道区間が待ちかまえていたのである。写真は無いが雰囲気は前の檮原川沿いと似ている。似ているはずだ四万十川沿いの国道こそが381号線なのだから。
地図を見ていると、381号線は地図からはみ出るぐらいに湾曲している。直線に道路を造ったらどんなに楽になるだろう。そんな酷道区間もそれほど長くは続かず、再び国道に戻る。
よっしゃー、江川崎まであと2km、目前や・・・
そう思っていた刹那、一部の人間は知っている極めて愚かな理由、それは制御棒抜きで原子炉を動かしてみたり、バケツでウランを運んでいた事にも匹敵する考えてみると極めて危険な行為であったがその時の儂にそこまでの思考能力は備えていなかったのであろう。ゆるい右のカーブ、そこを越えると江川崎に辿り着くというそんな場所であった。私の車は急激に左へスピンしたのである。
左へスピンした車は四万十川沿いのガードレール(ロープ式)の支柱めがけて突っ込む。そして支柱を大きく変形させた後そのまま右へ弾性衝突して平行移動し、タイヤの猛烈な抵抗力で停止する。車内ではエアバッグが作動して儂が前に乗り出すのを防いでくれていた。一方の儂は・・・呆然としていた。
車内に立ちこめる嫌なエアバッグガスの臭い、衝撃で変形して半開きになったドア、開いたドアの為に鳴り響く警告音、私は一切の判断能力を失いそこにいた。
その時通りがかった原付の若者がびっくりして私の元へ駆け寄った。「大丈夫ですか」その声で儂のシステムは再起動され、初めてその状況を目の当たりにするのであった。
幸い、運転席には損傷はなく、エアバッグのおかげで儂自身にも何ら怪我は無かった。バイクの若者はそんな儂の無傷に驚いている様であった。それほど激しい衝突であったらしい。
後ろから車が通り過ぎる、皆その状況を心配して声を掛けてくれる。完全に車線を塞いでいる為、車は車線を変更せざるを得ない状態にある。儂はとりあえず車をどけようと試みた。しかし、動かない。エンジンはしっかりかかる。ギアも些か違和感はあるもののかかる。しかし、どんなにアクセルを踏み込んでも動かないのであった。まさしく我々が当たり前の様に思っていた人間と機械との契約が反故された時の人間の無力さを痛感した瞬間であった。にてしまったかの様であった。
動くはずはなかった。衝突は主に左フロントと支柱とのものであり、左側が大きく変形していたのだから。特に左側のタイヤはホイールまでが変形してしまい。物理的に回るはずが無いほどに変形してしまっていた。それはもはや円ではなかった。
とりあえず警察に連絡しなくてはならない。原付の若者にとりあえず警察に連絡してもらうように頼んだ。集落に近いとはいえそこは高知の山奥、携帯も思いっきり圏外であった。そして待つことになる。
やはり、事故の状態が激しい為か通るドライバーに声を掛けられる。上には「しまんとグリーンライン」こと予土線が走っており、丁度電車が通りかかり、乗客は皆、儂のサニーに釘付けであった。
暫くすると軽トラックの地元の人が通りかかり、車を牽引して路側に引っ張ってくれた。そして、その軽トラで儂は江川崎交番に向かうことになった。
すぐに交番の駐在員と現場に向かい現場検証、とはいえ自損事故なので軽く済んだ。免許証にも何も書かれていない。減点も何もないのである。駐在員の人は親切で儂の宿を探してくれたらしいが、丁度この日は夏祭り、小さな集落の為に旅館はどこも一杯で泊まる場所が無いとのこと。とりあえず儂は町を歩いて見た。
夕闇に包まれた集落、町の広場では夏祭りで出店などが出ていて皆楽しそうである。儂は車を失い絶望のどん底にあった。その祭りでは儂は招かれざる旅人であった。
何とか中村へ向かおうと思い、ヒッチハイクを試みる。確か親指を出して下に向けるんだったっけな・・・とか思いつつ恥を忍んで行うも、全く捕まらない。もはや恥だとか恥ポイントで自害だとかそんなことを言っていられる状態ではなかった。あの時の儂は必死であった。泊まる場所もない、知っている人もいない、頼れる物が何一つない裸一貫の儂がそこにあるだけであった。そんな儂はとてつもなく弱い存在でしかなかった。鬱だとかそんなことで悩むのも愚かなほど微細な存在でしかなかった。事故った直後は本当に自分の未来が途切れた様に思えて、自分の凶都大学生としての地位も何もかもを失ったかのように思えた。夢であって欲しい、そう願った。これは夢で起きたらまたいつもの日常が現実として存在している。そうなって欲しいと思った。しかし、残念なことに現実は事故で車を失い宿も失った惨めな男一人である。
四万十川に差し掛かる橋で江川崎交番の駐在員と出会い話をする。予土線に乗って松丸の方へ行けば宿が見つかるかも知れない。そう言ってくれた。そして、儂は江川崎より終電の午後8時半ぐらいの宇和島行に乗り、隣町、愛媛県の松野町松丸へと足を運ぶことになった。

上の写真の江川崎駅ホームで18切符でしか乗ったことのないローカル路線で初めて普通に運賃を払っての電車旅となる。上の写真の江川崎駅ホームで儂は一人寂しく佇んでいた。丁度今頃、大阪ではエグゼクティブの会合が催されていて、連中は楽しく飲んで騒いでいるんだろうな、と沈んでいる。レンタカーから持ち出した車検証はエアバッグガスのにおいが臭い。その時車で干していた下着類もエアバッグの臭いが染みついていて、その臭いをかぐと事故の時の恐怖を思い出す。
ふと服に血の跡があるのに気づく。よく見ると左手の肘から血が出ていた。軽いかすり傷だが、事故を起こしてから3時間、全くそれに気づいていなかった。それほど儂は気が動転していたのであろう。駅で一人佇んで漸く事態が掴めてきた。
予土線は国道381号線に沿って進み、四万十川の支流、吉野川を上り愛媛県に入る。横に見える国道381号線、その道で私は事故を起こした。そんな道を走る車をうらやましく思いながら電車で思い更ける。思えば鉄道の横を走る道路に思いを馳せていたあの頃、儂は鉄道旅人であった。まだ教習所の第1段階教習中の頃、北陸本線を進んだ時、親不知の横を走る国道8号線を見て、「いつかこの道を走りたい」と思っていた事もあった。その夢が叶い、今回車で道路を走る機会を得た、にも関わらず結局行き着く先は車窓から見える道路でしかなかった・・・
電車は松丸に着いた。その時儂に下の風景が飛び込んできたのであった。

松丸では七夕祭りが催されていたのであった。丁度この時期、徳島では阿波踊り、高知ではよさこい、とあちこちで夏祭りの真っ最中、どこもお祭り騒ぎをしていたのであった。しかし、終電で辿り着いた様に町は既に眠りに就いたように静かであった。
まずは宿を探さねばならない。そう思い誰もいない集落の中を歩くが、どこにも旅館がない。それほど簡単に旅館が見つかるほどこの町は大きくはない。しかし、もはや他の町へ移動することも出来ない。交通の便ももはや何も存在しない。最悪の場合、この松丸駅で駅寝をせねばならない。駅寝だけはもう嫌だ。
一件の旅館を見つける。そして宿泊できるか尋ねてみるが、「今日はもう泊まることが出来ない。」と悲しい答えが返ってきた。この時ほど、世間の辛い風に当たった事は無かった。腹も減ってきた。しかし、定食屋の様な食事の出来る店はおろか店という店が全て閉まっていた。田舎は夜が早い。
観光案内の看板があり、そこを見ると「松丸温泉」という表示があり、温泉に行けば何か情報が得られるだろうし、風呂にも入れる、と思いそこまで歩くが、既に閉まっていた。人すらいなく、これほど人を恋しく思ったことはなかった。阿蘇の駅寝を思い出す。
ひとまず駅に戻り電話ボックスを見つける。そこにあるタウンページで旅館を探すと松丸という住所で2件あった。一つは先ほど断られた人でなし旅館(^^;、もう一つの旅館「末廣旅館」ここがまだ残っていた。最後の望みを託して電話を入れる。
ーはい、末廣旅館です。
すいません、ちょっとお尋ねしたいんですけれども本日泊まることは出来ますか
ーええと、ちょっと待ってください。部屋を確かめてきますんで。何人ですか?
ええと、一人なんです。
ー今どちらにおられるんですか
松丸の駅前です
ーちょっと部屋を確かめてきますんで、3分ほどしてからもう一度かけ直していただけませんか
はい、分かりました。よろしくお願いします。
脈有りの反応、とりあえず3分程待った後にもう一度電話した。すると、「一部屋だけ空いている」との事、良かった。神はまだ儂を見放していなかった。ただし、「飛び入りなもんで、夕食は用意出来ない。」とのこと、とりあえず自販機に売っていたカロリーメイトを購入して末廣旅館へと向かう。
末廣旅館では女将が道路に出ていて、儂に分かるようにしてくれていた。事故の事情を話した所、大変同情してくれて、夕食をカロリーメイトで済ませようとしているのを見て、「残り物で良かったら夕食食べて行きませんか?」と言ってくれた。この時ほど人の情に触れたことは無かった。捨てる神有れば拾う神あり、である。本当にありがたく思った。江川崎でも松丸でも見放され続けて最後の蜘蛛の糸、それが末廣旅館であった。そこで儂は本当にお世話になった。
暖かい情に触れた後には暖かい風呂にありつけ、暖かいご飯を頂いた。それどころか、その旅館の名物の天然物の鰻など、普通の夕食で出すのと同じ献立を突然の来客であった儂に振る舞ってくれた。旅館なだけあって、味は十分で、腹も極限まで減っていた為にご飯の一粒一粒ですら味がしみ出るほどに美味しかった。きっと儂は泣いていたのかも知れない。
こうして満点の人の情に触れて激動の三日目は終了するのであった。次の日はレンタカー会社に連絡をして、事故の処理をせねばならない。明日からが事故の本当の戦いとなるのであった。
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