残像/Afterimage

 

 その日の気温は、36度。普段から家に籠もりっぱなしの僕には、致命的なほどの気温だった。
 何故、こんな日の真っ昼間から、外になんて出てるんだろう。そんな不謹慎なことをふと思ってしまうほどだ。
 しかし文句も言っていられない。彼女には、僕から会いたいと言いだしたんだから。
 彼女とは、そのものずばり、僕の彼女。名前はマミ。高校の時からの付き合い。
 卒業後、僕は特に将来に対する目的もなく、適当な大学に進学し、そんな僕とは大違いの優秀な彼女は、医者になりたいという高い志のもと、さる有名な大学の医学部に進学した。
 というわけで、することと言えばバイトだけという僕とは違い、彼女は何かと忙しいらしく、高校の時に比べて会う回数が極端に減ってしまった。
 僕が言うのもなんだけど、マミは可愛い。それに性格もいい。そんな子を、男がほおっておくわけがない。今時は、彼氏持ちでもお構いなしなんて輩も多いし、医大生と言うのは固いイメージがあるがその実茶色や金色の頭をしたちゃらちゃらした奴も結構多いらしい。「医大生」という肩書きがかっこいいから、女もわんさか寄ってくるし、ナンパな性格になってしまうのも否めないところがある。そんな連中の増殖している謀反地帯に、マミはいる。いつも心配でたまらない。
 僕は、マミがそんな奴らにたぶらかされて、いつ僕に別れを告げてくるか、いつもいつも心配でならなくて、こんなに会わないでいて、そのうち自然消滅なんてことになるかもと思うと夜も眠れなくて、とにかく、会えるのなら一秒でも長く一緒にいたかった。
 そんな折。常日頃からメールなどでしつこく会いたい会いたいと言い続けた僕に、いつも忙しいの一点張りだった彼女から連絡が入った。
 久しぶりに時間が出来た。けれど夕方からまた用事があって、用事の場所の近くでいいなら待ち合わせをして会ってもいいと言われた。僕の家から、電車を二本乗り換えして、その後バスに乗ってから、歩いて十五分かかるところだった。が、僕はそれでもマミに会いたい一心で、こうして炎天下の中、バスを待っている。
 しかし、暑い。暑くてたまらない。さっきから病気じゃないかと思うくらい汗が流れて、ただでさえ少しサイズの合わない眼鏡がずり落ちてきて鬱陶しい。
 僕以外にバスを待つ人影はない。バスは、あと十分くらいしたらやってくるらしいが、十分という時間がこれほど苦痛なものと感じるのは久しぶりだ。
「はあ……」
 自然と、声に出してため息をついてしまう。しかし、これもマミのためだ。忙しいマミが、わざわざ僕のために作ってくれた時間だ。
 僕は自然と俯き加減になり、三週間ぶりにマミに会える喜びと、炎天下の中俺は一体何をしているんだという無常感の狭間で苛まれていた。
 ―と、
 ふっと、何かが視界を掠めた。すえた匂い。
 煙草の煙。
 僕は煙草を吸わないので、他人の煙が不快だった。しかもこんな気分の悪いときに。
(……ったく、誰だよ……)
 僕はじろりと、煙が流れてきた方向を横目で見やった。
 するとそこには、女がいた。
 てっきり、頭のはげ上がった傍若無人なオヤジでもいるのかと思ったので多少面食らったが、女が煙草を吸うのが珍しいわけでもなく、しかし、僕はしばらくその女を注視してしまった。
 何故ならその女は、肩口までの長さの、緩いパーマがかかった髪が真っ白で、この暑いのに黒い長袖で膝がばっちり出るほどミニのワンピースを着て、レザーがてらてら光る編み上げのロングブーツを履いている。勿論ブーツも黒で、まるでパンキッシュな喪服。その上、目の縁にどす黒い濃い隈取りが施してあって、唇まで、趣味最悪な黒い口紅なのだ。
(うわ、今時珍しいくらいのビジュアル系だな)
 かなり酔狂なファッションセンスである。僕は心の中で、いつも清楚な感じの服装をしたマミのことを思い浮かべ、つい、隣の変な女と比べてしまった。やっぱりマミは可愛くて、最高の彼女だ。……しかし、
(……どうしよう、久しぶりに会った彼女が、こんなんになってたりしたら……)
 そんな想像は、この暑さの中ですら少し寒気を覚えるモノだったので、僕はすぐに思考を中断した。
 その後もついつい、隣の女を盗み見てしまう。よくよく見れば、結構整った、綺麗な横顔だった。が、決して仲良くはなりたくないタイプだ。
 女は呆然としたような、焦点の合わない目で、まっすぐ前を向いて、夢見心地のような顔をして煙草を吸っている。風向きのせいで煙がこちらにばかり来るが、露骨に嫌な態度を見せて、女の注意を引いてしまうのも嫌なので、僕は黙って俯いていた。
 もうすぐ、バスはやってくるし……。

「―バス、来ないわよ」

 キンと冷たく固い氷を連想させる、そんな声が、聞こえた。
「え?」
 思わず、隣に目を向けてしまった。
 ばっちり、女と目が合った。一瞬ぞっとした。
 黒く太い隈取りをした目が、僕の目を凝視している。僕は、何故か射すくめられたように、その目から視線を逸らすことが出来なくなった。
「バスは来ないわ。いつまで待っても来ないわ」
 何を言っているんだ、この女。
「な、ど、どうしてですか……」
 話などしたくなかったが、つい、そう尋ねてしまった。すると女は、
「あなたが、望んでいないからよ」
 そう言って、笑った。凄惨な笑み、というのを、僕は初めて見た気がした。僕は思わず首を振って、やっと目を逸らした。
 絶対、この女は頭がおかしい。
 今すぐこの場から逃げたい。けれど、バスはちゃんと来るかもしれない。しかし、この女の言うことが本当だったら? いや、そんなことあるはずがない―。
 ふう、という吐息のような音に混じり、

「またね、誠一君」

 そして、

 プァン! という大きな音に、僕はびくりと肩を震わせた。
 バスの、警笛の音だった。
 前方の扉が開いていて、その奥に、少し迷惑そうな顔をした運転手の姿が見える。
「お兄さん、乗るんですか? 乗らないんですか?」
「……あ、すいません、乗ります……」
 僕はのろのろと、力の入らない足で立ち上がった。
 バスに乗り込んでから、僕は怖々ながらバス停を振り返った。
 女の姿は、既になかった。

 

◇◇◇◇◇

 

「本当にいたの? そんな女の人。誠一君、白昼夢でも見たんじゃないの?」
 マミが、くすくすと笑いながらそんなことを言った。

 あの後。

 バスに乗っている間も、まだあの女が近くにいて自分を見つめているような感覚に身震いしながら、待ち合わせ場所の喫茶店の冷房の良く効いた涼しい空気に少し落ち着き、そして、奥の方の席から手を振るマミの姿を確認して、やっと安堵のため息を漏らした。だが不安が綺麗に拭い去られたわけでもなく、とにかく、僕は気味の悪い謎の女のことをマミに話した。すると彼女は笑って、そんなことを言ったのだ。僕は少しむっとした。
「違うよ! 絶対にいたんだ。……で、なんでか知らないけど、俺の名前知ってて……」
「やだあ、それって、もしかして誠一君のストーカーとかじゃない?」
 マミは冗談めかして言ったのだろうが、僕はその言葉に本気で寒気を感じた。
「冗談でもそんなこと言わないでくれよ! マジでやばそうな女だったんだから!」
「はいはい。ごめんなさい」
 マミはやはり、僕の恐怖を理解してくれていないようだったが、彼女の屈託のない笑顔を見ているとそれ以上怒る気は失せた。
「……ま、どうせもう、会うこともないだろうけどね」
 そう言ってみせたが、しかし、女の発した最後の言葉が気になっていた。

 ―またね。

「そうそう、もうそんな暗いこと考えてないで。生きれてば、変な人の一人や二人会うことだってあるよ。それに久しぶりに会ったんだからさ、もっと明るい顔してよ」
「……うん、ごめん」
 それから僕達は、大学のことや、僕のバイト先の嫌な奴のこと、とかく他愛もない話をし続けた。
 その間僕は、話半分で、久しぶりに会う彼女の姿ばかり見入っていた。
 たかが三週間ほど会っていないだけだけれど、マミは急に、綺麗になったようだ。少し前までショートだったのに、今は耳の下辺りまで伸びた髪を少し明るい色に染めている。服装も変わった。前は白や薄いピンクなんかで、ひらひらとかがついたワンピースやブラウスを好んで着ていたのに、今日は思い切り肩の出た明るいグリーンのキャミソールに、細身のジーパンをはいたりしている。
 男が変わると、服装の趣味も変わる。
 そんな恐ろしい言葉が頭を過ぎった。
 しかし気弱な僕は「随分服の趣味変わったね」などの一言が、どうしても告げられなかった。

「……あ、そろそろ、行かなきゃ」
 出来れば聞きたくなかった一言を、彼女は発した。
「もう? まだ五時だよ」
「……ごめん。今日は、ここの近くの病院でインターンやってる先輩がいろいろ教えてくれるって言ってくれて……でも先輩も忙しいから、今日くらいしか時間取れないって言われたの。だから」
「……その先輩って、男?」
 僕はついにそんなことを言ってしまった。マミは一瞬惚けた顔をして、すぐ、少し怒ったような顔をした。
「何が言いたいの? 誠一君」
「あっ……いや、その……」
「……私、そんな軽い女に見える?」
「そっ、そんなわけないだろ!」
「じゃあ、変に勘ぐったりしないで。私のこと、信用してよ」
 気まずい沈黙。ああ、俺は、バカだ。
「本当、ごめん。ただ、心配で……」
「余計な心配よ」
 マミの声はまだ怒っていて、僕はろくに顔を見れない。
 が、不意に、肩にぽんと手が置かれた。
 見ると、席を立ったマミが、僕の隣に立って、にっこりと微笑んでいる。
「……私、誠一君以外の人なんて考えられないから」
 そう言って手を振ると、「ごめんね、じゃあ」と言ってマミは喫茶店を後にした。
 僕は、次第に沸き上がってくる感動に、しばらく打ちふるえていた。
 この時点で、先程の謎の女のことなどすっかり頭から消え去っていた。

 

 

NEXT