イワクニのケータイが震えた。幼馴染の田中。恒例の舌打ちをしてから通話ボタンを押す。
「なんだよ?」
<あ、あああ、あっ、ああ>
――なんだ、気持ちの悪い……。
「シコってる最中に電話してくんなクソが」
<ちが、が、っ、ぐ……>
様子がおかしい、それは明白だ。
<クニ……ヤバいんだ……>
「なんだってだから?」
<ううう……>
苦しげなうめき声が、鈍感なイワクニにもダイレクトに焦燥感を与えた。
「……おい、たな」
<あの……女……>
<あの女……生き返った>
――ズッ、と、下腹の辺りが痺れた。
「……ゆみか」
<ひひ、ゆみか……ひひひ、いひひひひひひひひひひひひひ ひ ひ ひひ ひ ……>
「そんなわけ、ねえ」
<生きてるんだ……だって、俺、あいつに……腹、食われた………>
「何だって?」
<痛いよ、クニ、物凄く痛いよお、はああ、お、おれえ、死んじゃうよ、こんなん、もう病院行っても無理だよううう、うう、うぐ、し、死にたくないよ、クニ……>
「お前今どこいんだよ!?」
<家……>
「ゆみかは!?」
<ん……さあ、どこ行っちゃったのかなあ……? もうどっか行っちゃった……あ、たぶん、クニのところに行くんじゃないかな、はは、あいつ、クニの腹も食いにくるよ、たぶん、絶対、絶対、だって、そんなん、俺だけこんなん、嫌だ……クニのも慶のも、食ってもらわないと>
「お前マジ何なんだよ!? いつもの悪ふざけにしたってほどがあんぞ!?」
<マジ、マジだって、俺、もう、動けないくらい、腹の中空っぽだよ、肉も臓物もなんもないよ、ああ、もう、痛くもない、なんか、すげ〜え、眠い>
「テメエ、ふざけだったらあとでマジぐちゃぐちゃにするかんな!?」
<嫌だあ〜、もう、ぐちゃぐちゃになっちゃってるのに、これ以上どうしようもねえよ〜>
声のトーンは笑っているようで、どう考えても田中の悪ふざけにしか思えなかった。
第一、「ゆみかが生き返った」なんて、口が裂けても、そんなことは言ってはならない。悪趣味すぎる。彼らの間で――ゆみか――は、禁句だ。
しかし、ならばくだらない悪ふざけに、ゆみかの名を出すなどという愚行、さすがの田中でもやらない筈だ。
――だとすれば、
「田中…………本当、なのか?」
<助けて……クニ、怖いよ……>
泣いている声だった。イワクニはにわかに、強い不安に陥った。
「田中、俺、今からお前ん家行くからな! 絶対助けてやるから!」
<うう、ううう、うええええええええええ>
通話が突然切れた。
イワクニは走り出した、田中は意地汚くて下品で小心者でイヤな男だが、幼馴染で、一応、友人だ。そいつが今まさに死のうとしている、あのゆみかが一体どう関わってそうなったのかは全く理解出来ないが、とにかく、今のイワクニには、走り続けることしか出来なかった。とにかく、田中に会ってやらなければ。無我夢中で走って走って、血反吐が出そうになりながら到着して、結果、全く無傷のニヤニヤ笑いを浮かべた田中が玄関先でいらっしゃいませとかほざいたとしても、それならそれで、いい。ボコボコにして半日寝込むくらいにしてやればいい、それだけのことだ、死ぬよりマシだ、全然マシなことだ。死ななければ、イワクニと田中の間にはまた友情という潤滑油が滲み出して、何事もなかったような平穏の日々がやって来るのだ。
友人が「死ぬ」なんてこと、イワクニには考えられないことだった。
そして、ゆみかが「生き返った」なんてことも。
まさか、とイワクニは唾を飲む。自然と、不吉な言葉が唇から漏れ出した。
「――まさか、本当に、『悪魔』が……?」
イワクニ――岩ノ国光裕は、自身がそういったイメージを持たれることをよしとしているわけでもないが、同級生や教師からは「不良」という肩書きを頂戴していた。それに対してイワクニに思うところは何もなかったし、生来の強面と物騒なほどに恵まれた体格によって培われた不良のイメージによって他人が寄り付かないことには満足していた。唯一の友人と呼べる人間は幼馴染の田中秀則で、イワクニは田中がやたらと自分の傍にいたがることに対して可も不可もなかった。もちろん田中が自分のような人間といたがるのは、田中がまさに貧弱な男の見本であるとしか言いようのない体型に示し合わせたかのような貧相な顔立ちをしていて、実にマジメなほどに「不良」然と生きている輩の恰好の餌食であり、しかしイワクニが傍にいれば不良達は田中を避ける、というシステムであることをイワクニは承知している。要するに田中にとってイワクニは頑強な盾であり、その見返りとして、勉強だけはやたらと出来る田中が授業などほとんど出たためしのないイワクニの宿題や試験用カンニングペーパーの製作をせっせとやってのける、そういった関係性である。
平日の昼間に街なかを堂々と歩き回っていても、老け顔のイワクニは高校生らしい制服姿をしてさえいなければ補導の憂き目に合うことなど到底なかった。私服を着て家を出ても、注意する人間はいない。イワクニが一緒に暮らしているのは、介護の必要な母方の祖母だけだ。彼が物心ついた時には既にそうなっていた。両親はそれぞれに彼を捨て、彼が幼少の頃はまだ元気だった祖母と二人きりでずっと生きてきた。イワクニが学校に行かないのは自分と祖母の生活費を稼がなければならないという切実な問題も一つの原因だった。学校など辞めてしまいたいが、高校はどうしても出てほしい、そのための蓄えは用意していたのだと祖母に泣き喚かれ、仕方なく中退していないだけだ。だが、そんな祖母も彼が無事高校に入学して安心しきったせいか、一気に呆け、足腰が急激に弱り、腎臓を患って、寝たきりになってしまったという様だが。
朝の3時から始まる市場の仕事を終え、夕方からの工事現場でのアルバイトまでの時間をファーストフード店や寂れた喫茶店や公園のベンチの上で過ごす。出席日数を稼ぐためにやむなく、もしくは田中から試験があることを告げられた時だけふらりと学校へ赴く。これがイワクニの大体の日常である。
自販機でマルボロを購入し、ふと、足元に目をやる。太陽の光が反射したのか、キラリと何かが光って見えたからだ。小銭かと思ったが、違った。
――小さな石ころ。
イワクニは微かに失望して舌打ちしたが、1秒後には、その石を拾って手の平に載せていた。
よく見れば、非常に美しい石だった。血のように赤い、透き通った球状の石。どうせガラス玉に過ぎないだろうと頭の隅では理解しているのだが、言い知れぬ魅力に抗えず、イワクニは黙ってその石をジーパンのポケットにしまいこんだ。ガラス玉であればそれでいい、万が一値打ちのある宝石だったら儲けものだ。こんな小さな石一つ持っていたって何の支障もない――イワクニは何故か頭の中で必死なほど言い訳をしながら自販機の前から去った。
「ちょっと、頼まれてほしいんだけど……」
珍しく家までやって来て、田中が開口一番切り出す。イワクニは鉄面皮を貫いた。田中はニヤニヤ笑いを引っ込めることなく、両手を合わせて頭を下げた。
「お願いだよ〜、一緒に行ってよ〜『ネバーランド』」
「……なんだそりゃ、遊園地か?」
「違うよ、ちなみにハナが変な人とも関係ないよ」
ハナのくだりはイワクニには理解出来なかったが、ともかく返事はしなかった。
「ふつーの店だよふつーの。ただまあちょっと、へへ、クニだってきっと興味あると思うけど」
このもったいぶった喋り方が鼻につくが、イワクニが田中に対してそういった文句を言ったのは小学生の時だけだ。その辺りで諦めた。
「だからあ、エロいものがいっぱい置いてある店だよ」
何がだからなのかわからないが、田中が気持ち悪いということだけは執拗なほどに理解し尽している。
「クニってなんかさあ、硬派気取ってるけど、別に興味ないわけじゃないだろ? な? きっと楽しいぜ。最近の女優はすげえ可愛い子ばっかりだしさ〜」
大方、田中が「趣味」と称して収集しているアダルトビデオやDVD関係の店なのだろう、しかし、
「通販で買えばいいだろうが、いつもそうしてんじゃねえのかよ」
「いや〜、残念ながら、今回のは店頭引取りオンリーの激レア商品なのよ。美々野ハレルヤっていう子の」
昔読んだ少年漫画の主人公によく似た名前の奴がいた気がするが、体力の無駄なのでイワクニは言及しなかった。
「どーっっしても手に入れたいんだよね! ハレルヤ嬢って1年前まで有名SMクラブのナンバーワンM女だった子なんだけどさ、今は引退しちゃってて、ビデオ出演はその一本だけで、しかも限定30本しか作ってなくて、それ逃したらもう一生入手出来ないかもしんないんだよ! でもさ〜、『ネバーランド』のある辺って、むちゃくちゃ治安悪くてさ、俺みたいな善良な人間が一歩でも足を踏み入れようものなら、たちまちのうちに手足バラバラにされちゃうんだよ! でもクニが一緒だったらさあ、絶対安全って感じだし、だから……お願いします!」
田中に対して同情の余地も貸しもなかったが、不幸なことに、イワクニは途轍もなく暇を持て余していた。
そうして、気が付けばイワクニは田中と連れ立って電車に乗り、目的地へ向かう道のりを歩いていた。確かに治安は悪そうだ。見渡す限り風俗店しかない。絶えず下水とアルコールの臭いに満ち、昼間なのに異様なほど薄暗く、生気を失った人間がゾンビのようにウロウロとだらしなく徘徊している。田中の言った通り、ガラの悪い人々は田中を見て肉食動物の気を発して目を細めるが、次いでイワクニの鬼神のごときルックスを目にした途端、俯いてゾンビの顔に戻った。こいつらをマシンガンで撃ちまくっても何の感激も得られないだろうとイワクニは思った。
無事に買い物を終え、嬉々としたテンションで何か奢らせてくれと田中が言った。その提案が田中から自発的にあって、なければ搾り出すつもりだったのだが、無駄な労力を消費せずに済んだことにイワクニは満足した。
だが。
田中は、どこまで行っても使えない田中だった。
「……あ、ヤバい、財布、ない」
絶望という単語が美しいほどに当てはまる、そんな声音で田中が呟いた。それはファミレスにて、彼らにしては贅沢な食事を終えた後の言葉だった。
「――なんだと?」
「ご、ごめん、てゆーか、どうしよ、財布、落としたっぽい」
イワクニは深いため息をつく。ため息をつくと、肺の辺りにずっしりと不愉快な重みがかかるのでイワクニはなるべくため息をつきたくないと思っているのだが、田中といるとため息をつかざるを得ない状況に陥れられることが多々ある。田中は青ざめ涙目になっているが、可哀想などとは少しも思わなかった。ただひたすら、イワクニは彼の愚かさにふつふつと怒りを感じるばかりだった。
「悪い、クニ、た、立て替えとい」「探してこいよ」「……ええ?」
有無を言わせぬ重圧感。田中がそれに屈しないわけがない。だが、繁華街からは離れたといっても、既に午後10時過ぎ、外は田中にとっての「悪魔達」が遂に目覚めて活発に跋扈し始める時間帯だ。そんな中へイワクニという盾なしで飛び込むのは、自殺行為と言って差し支えない。
「で、でも無理だよ、見当もつかないし」
「俺は絶対払わねえ」
「でも」
「なんだ?」
「……」
田中はとうとう落涙した。女々しい――イワクニは吐き気を覚える。こんな時、イワクニは何故このチンケな小男と飽きもせず行動を共にするのか、最初はよくても、最後には結局苛立つだけだとわかっているのに、実はわかっていない自分は果たして愚か者なのだろうかと混乱する。だがその解答は遠い未来にすら存在しているか知れない。
長い沈黙が続いた。
埒が明かない。イワクニは再び嘆息する。明日も市場の仕事があるから早く帰って眠りにつきたい。だが金を払わなければ帰れない。だが食い逃げなどもってのほかだ。見た目は恐ろしいが、イワクニはこれまで警察の世話になったことは一度もない。祖母に迷惑をかけるような行為をするのは避けてきた。
3度目の嘆息の後、イワクニは、ポケットから財布を取り出そうと少し前のめりになる。殴られるとでも思ったのか、田中が一瞬肩を震わせた。その間抜けな態度に舌打ちする。
「――失礼」
イワクニも田中も何も言っていない。だが声は彼らのすぐ側で響いた。
「先ほどから君の後ろの席で話を聞いてたんだが、財布というのは、もしかしてこれかな?」
2人はテーブルの脇に立つ人影を同じタイミングで見上げた。
男だ――と思う。
イワクニが不意にそう思ってしまったのは、それが、非常に中性的な印象の人間だったからだ。
左側だけが妙に長い前髪、細い眉に吊りあがった大きな瞳、細く高い鼻梁薄い唇、全てのパーツが嫌味なほどシャープに整っている。肌は真っ白に輝いており、うっすらと笑みを浮かべている様は、さながら名画の中の聖女だ。
「あっ、俺の財布だ!」
男が手にした財布にかぶりつかんばかりの勢いで田中が叫ぶ。
「それは良かった。ついさっき、この店の近くの道路に落ちていたものを拾ったんだ。交番に行く手間が省けた」
「わ……ああ、よ、良かった、マジで……あ、ありがとうございます!!」
男から財布を受け取り、頬を紅潮させる田中。男はそれを見てにこにこと笑っている。
イワクニの目には、その男が何となくいけ好かない人間に見えた。単純に、実は自分の顔に少なからずコンプレックスのあるイワクニが、美しいと表現しても過言でない青年に対して女のような嫉妬心を芽生えさせただけかも知れないが。
「いや〜、良かったああ……ションベンちびりそうになったじゃんか、クニが睨むからさ〜全く」
――マジでションベン垂れ流させてやろうか。
「や、ほんと、どうもありがとうございます! おかげで助かりました。ご恩は一生忘れません! これで帰れるな、クニ。じゃ、行こうぜ」
「……それだけ?」
そう呟いたのは、男だ。
「え?」
「……感謝しているなら、態度で示してほしいんだけど」
何だ、こいつ。イワクニは座席から少し腰を浮かせた。
「あ、ああ……そうですね。すいません。じゃ、あの……どうしたらいいでしょうか?」
田中の間抜けな言葉にも、男は一切の感情の起伏を見せず、ただうっすらとした笑みを貼り付けている。
「えーっと。じゃ、なんかアレですけど、お金……とか」
「そんなもの必要ない」
「……」
田中の視線がイワクニに刺さる。
「何だテメエ、財布拾っただけで偉そうにすんじゃねえよ」
大抵の人間は、ドスの効いたこの声に気圧される。だが、男は一向に動じない。
「いや、何も大したことをしてくれとは言わない。ただ、僕と――友達になってくれないかな」
「――はあ?」
イワクニは田中と言葉が被ったことに小さく舌打ちをして、立ち上がり、自分の首元までしかない男を見下ろす形を取る。
「何ほざいてんだ? 頭おかしいんじゃねえのか」
「別におかしなことは言ってないと思うんだが」
「ふざけんな!」
店内が怒声で震え、一気に静まり返った。人々の視線の雨を気にして、田中が慌ててイワクニに言う。
「ちょっと、なんでそんなにブチキレてんだよ!? ……いいじゃん別に。俺はこの人と友達になってもいいよ」
「本当? 嬉しいな」
「テメエ顔逸らしてんじゃねえよ!」
「クニ!」
さすがにイワクニも店内の空気を察し、男を押しのけてレジに向かった。田中は男に申し訳なさそうな視線を送りながらイワクニの後を追った。
男は、2人の背中をただ、じっと、見つめていた。