第一章

〈今朝の関東地方のお天気は――え? なんですか? え?〉
習慣で、目が覚めてすぐにつけっぱなしにしているテレビでは、朝の天気予報が流れていた。
篠崎陽子(しのざきようこ)はその時、ベッドの縁に座って右目にマスカラを塗っていた。女子アナの声が異様なトーンになったところで、気になって手鏡からテレビ画面へ視線を移した。
――何、あれ……?
すぐには状況がわからなかった。
〈え、何? ちょっと……〉
現場にいる女子アナもわかっていないようだが、異常事態だということだけはさすがに理解しているのだろう。甲高い、不安に満ちた声で何、何、と繰り返している。生放送なのにカメラに背を向けて。
その五メートルほど後ろの広場で、人が殺されていた。
夏物の制服を着た少年が、うつぶせの状態で地面に倒れていた。
その傍らに犯人が立っている。
黒っぽいジャージを着た若い男だが、やけに目が離れていて、口元もだらしなく緩み、妙に腰をかがめている。……いや、最初から腰が曲がっているようだ。べったりと脂っぽい髪を乱し、血まみれの包丁を持って立っているだけでも不気味なのに、不自然に屈んで見えるその姿勢が異様さを増長させていた。
犯人の周囲に人はいない。生中継の時にどこからか群がってくる野次馬集団は、さして大騒ぎもせず、不安そうな、虚ろな目で遠巻きに犯人を警戒している。きっと彼らも、状況に漠然と危機感を覚えてはいるが、あまりに突然起きた凶行を受け入れられず茫然自失しているのだろう。
しかし犯人が、ずうっ、と重そうに足を引きずって動きはじめると、途端にパニックが起こった。鋭い悲鳴があがって散り散りに逃げ出した。そこでやっと、中継先からスタジオの映像に切り替わった。キャスターやコメンテーター達は一様に呆けたような顔をしていた。陽子も似たような顔をしてテレビをじっと見つめていた。
〈……えー、ただいま、中継先で事件が起こったようです……詳細がわかり次第、追ってお伝えしたいと思います〉
司会役のキャスターは、多少緊張した表情ではあったが、ベテランらしい冷静な態度でそう言った。
陽子はマスカラと手鏡を持ったまま固まっていた自分に気付いた。
「さっきの男、見たことないか?」
チノがそんなことを言いながら、陽子の背中に忍び寄った。
陽子の左肩に顎を置いて、がりがりに痩せた腕をテレビに向けて伸ばし、指差した。真っ白な長い髪が頬に当たると、少しちくちくして鬱陶しい。
「誰のことよ」
「人殺しの奴。見たことあるぞ」
「……知らないよ、あんな気持ち悪い奴」
「陽子は馬鹿だから覚えてないんだ。ワタシは覚えてる」
「どこで会ったのよ」
「村だ」
さっきの男……たぶん自分と同じくらいの、二十歳そこそこだった。それであの村の出身者だとしたら、覚えていないわけがない。陽子が十八の時に飛び出したあの村の同年代の子供は、彼女を含めて六人しかいなかった。
「しょうもない嘘つかないでよ」
陽子はチノを軽くあしらい、ベッドから立ち上がって、三歩でたどり着けるクローゼットの前に移動した。
「ふん、嘘だと思うならそう思っとけばいい」
チノはふてくされてベッドに寝転がった。薄い桜色の襦袢しか身につけていないので、すぐ胸もとや脚が丸出しになる。
陽子は安物のボーダー柄のパジャマから、オレンジ色のシンプルなワンピースに着替えながら、クローゼットの戸にくっついている鏡越しにチノのだらしない姿を盗み見た。
チノは青みがかった綺麗な肌をしている。小鳥のようなか細い骨に申し訳程度の薄い筋肉がまとわりついていて、そこにぴったりと皮を張り付けた、というイメージが陽子の脳裏に浮かぶ。皮下脂肪なんてまったくないんじゃないだろうか。
手入れしていない髪は真っ白で、まるで老婆のようだ。歳はおそらく十七、八くらいのはずだが、小柄で、やたらと目が大きくて丸顔だからか、十四歳くらいに見える時もあった。
チノはとても綺麗な女の子だ。
陽子も、人からたまに「美人」とほめられる程度には整った容姿をしているが、チノはもはや別格である。
彼女くらい綺麗だったら、きっともっと、いろいろなことがうまくいっていたと思う。
チノを見るたび、陽子はそんなことを考え、暗い嫉妬心で汚れていく。
無意味なことだ。本当に無意味な。
チノが突然がばっと跳ね起きて、猫みたいな四つん這いで床に降り、そのまま続きのキッチンに行った。チノには常識や羞恥心というものが欠けている。まるで狼少女だとよく思う。
小学生の時に父が買い与えてくれた、「世界なぞなぞ不思議事件」とかいう変なフルカラー図鑑のことを思い出す。金星人に襲われる外国人の子供や、エジプトのスフィンクスの劇画とともに、狼の群れに育てられた少女がジャングルの奥地で発見された、という話が載っていた。その事件が一番印象に残ったのは、その頃すでに今と同じ姿、同じ態度で自分の側にいたチノの存在にリンクしたからだろう。
チノは床に座り込み、冷蔵庫を開けて中を眺めていた。
さっきの殺人事件のことが気になったが、テレビの中ではまだ進展はないようだった。すでにネットでは騒がれているだろう。電車の暇つぶしがてら、ニュースサイトでも見てみることにした。
支度を終えた陽子はテレビの電源を落とし、チノの背後を通りすがりざま、
「冷蔵庫開けないでって何回言ったらわかるの? あんた用事ないでしょ。おばけなんだから」
玄関で靴を履いている陽子の背中に、チノの不満げな声が叩きつけられた。
「うるさい、馬鹿」
チノの美しさに嫉妬しても無意味だ。
彼女は、陽子にしか見えていない「おばけ」なのだから。

満員電車の中で、陽子は車両の真ん中あたりでスマホを手にうつむいていた。四角い画面にはニュースサイトが映し出されている。
最初のページのトピックスの中に「早朝の凶行・生放送中に殺人」というタイトルを見つけて、それを選んで新しいタブを開いた。

 ――天気予報の生中継内に刃物男が乱入。男子高校生死亡
二〇一三年七月十六日八時配信
○○テレビの朝の情報番組「おめざめニュースキャッチ」内の天気予報のコーナーにて、中継場所を見学していた都内の高校二年生・杉山卓郎さん(十七)が、男に刃物で腹などを刺されて重体。搬送先の病院にてまもなく死亡が確認された。
これまでの警視庁の調べに対し、現行犯逮捕された二十代男性は犯行を認めているが、動機については黙秘を続けている。

犯人の素性はまだわかっていないようだ。
――人殺しの奴。見たことあるぞ。
早口で、いつもなんとなく笑いを含んで聞こえるチノの声が、陽子の耳の奥によみがえった。
知っているひと……だっただろうか。
べったりとした髪、まるで海から這い上がって来たばかりのような。腫れ上がったまぶた、異様に離れた目、平たい鼻、だらりとした口もと、不自然に屈んだような姿勢……あんな人間が、血まみれの包丁を手にしてぼんやり立ち尽くしている姿は、悪夢そのものだった。
村で見たことあるなんて、ありえない。
陽子は同世代の六人の顔をひとりずつ頭に思い浮かべた。
最初に浮かんだのは、村で一番のお金持ちだった、上依戸暁也(かみいどあきや)。小学生の時の彼だった。癖のない綺麗な髪を少し長めに伸ばしていて、繊細で上品な顔立ちは女の子よりも可愛かった。勉強も運動もできて、穏やかな性格だったから、誰も彼をいじめなかった。誰もが彼を好きだった。もちろん、陽子も。
次に浮かんだのは、猪瀬信平(いのせしんぺい)。典型的な餓鬼大将で、陽子は彼によくからかわれて泣かされた。身体も声も大きくてがさつで、陽子はあまりいい印象を持っていなかったが、くっきりした眉に大きな目をしていて、にかっと笑った顔は魅力的だった。大人になって落ち着いたら、きっとモテるようになるだろうと思える子だった。彼は中学一年の時に、父親の仕事の都合で村から出て行った。しかし、それは単なる噂で耳にしたことで、実際の理由はよくわからない。引っ越しをする前触れもなかったし、少し不自然な、夜逃げ同然の出来事だった。
陽子にとって特別な男の子はこのふたりだけだ。あとの三人は同じくらいの年というだけで、それほど印象は強くない。
病弱な古田巧(ふるたこう)、ひとつ年下の深山俊(みやますぐる)と矢形広之(やがたひろゆき)。子どもが少なかったので、小学校は一年から六年まで全員同じクラスだった。
暁也、巧、俊、広之とは十八まである程度の付き合いがあったけれど、なぜかみんな小学生の姿で思い出した。
なぜか。
ああ、そうか。
……同い年で、唯一の女の子の友達だった、柚木博子(ゆのきひろこ)。
彼女の姿に合わせて、他のみんなも小学生になって現れたのだろう。
陽子の記憶の中には、小学六年生までの博子しかいない。
博子は、六年生の時に「神隠し」に遭った。
要するに行方不明になったのだ。誘拐だったのか、家出だったのか、事故だったのか――真相は未だにわからない。大人達や、もちろん警察も来て、何日もかけて捜索が行われたが、博子はついに見つからなかった。あの当時のショックや不安は、今でも胸のあたりにこびりついている。
博子の家族は、それからまもなくどこかへ引っ越した。
博子はいつもおかっぱ頭にしていて、地味な顔立ちで性格もおとなしかったけれど、とても優しい子だった。陽子の大好きな親友だった。
――陽子ちゃん、ほんとに可愛いねえ、いいなあ。東京に行ったらアイドルになれるよ。絶対。わたし応援するから、アイドルになってテレビに出てよ。
博子はよくそんなことを言って陽子を喜ばせた。自分でも、テレビに出ているアイドルよりずっと可愛いと思っていた。男の子達も陽子のことが好きで、みんながちやほやしてくれた。信平だけは陽子を箒の柄でこづいたり、机の中にアマガエルの死骸を仕込んだりするから嫌いだったけれど、今思えば、好きな子の気を引きたい一心だったのかもしれない。
肝心の暁也が陽子をどう思っていたかは、よくわからない。工藤暁也は、彼の家族共々、なんとなく謎めいたところがあった。そこが不思議な魅力でもあった。
子どものおだてに気をよくして――というわけではないけれど……いや、少しはそれもあるかもしれない。
陽子は父の反対を押し切って、ひとりで東京に出てきた。父には進学が目的だとごまかすために、苦労せずに入試をクリアできる短大を選び、アイドルになろうとしたが……早々に心は折られてしまった。
レベルが違ったのだ。
東京にいる女の子は、ただその辺を歩いているだけの女の子ですら、細くて可愛くてお洒落で、思わず見とれるほどだった。そんな子がごろごろいる。陽子はまさに井の中の蛙だった。何もしていないうちから打ちのめされてしまった。その時の陽子は通販で買った花柄のコートを着て、すごくお洒落をしたつもりだったのに、丸の内駅の公衆トイレの鏡で見た姿は恥ずかしくなるほど不恰好だった。毛先にパーマをあてて、ピーチブラウンに染めたって、劇的に垢抜けたりはしなかった。
第一、アイドルになるにはもう年が行きすぎていた。そんな基本的なことを知ったのも東京に出てからだった。
――私は非現実的な夢の中で、ひとりで遊んでいただけだった。
東京に行きさえすれば……行けたらどうなると思っていたんだろう。今はもう忘れてしまった。
チノくらい、段違いで綺麗だったら。
陽子は何度も嫉妬し、その度に馬鹿なことをと自嘲する。
綺麗でも、彼女はどこか狂っているから、うらやましがるなんて本当に無意味なことだと頭ではわかっている。
無意味と言えば、なんの思い入れもない短大で、だらだらと過ごしている今この時こそだ。
それでも唯一すがりつくしかない夢だったから、陽子はとりあえず小さなモデル事務所に入り、ネットショップからの依頼やプロアマの撮影会などを月四、五回ほどこなしている。当然大した報酬はなく、父からの仕送りがなければ到底生活できない状態だ。父は、自分を愛しているとか心配しているというわけではなく……後ろめたさから、お金を送ってくれるのだろう。
妻に逃げられた自分を憎み、母に捨てられた陽子を哀れんでいる。
あまり思い出したくないことだった。
陽子はスマホの画面を押して、サイトを更新してみた。
新しいニュースはまだ入っていない。
結局、あの事件の犯人と、陽子の記憶にある男の子達のいずれも一致しなかった。
猪瀬信平かもしれないと一瞬思ったが、成長だけであそこまで変わるとも考えにくい。
チノはたまに、本当にくだらない嘘をつく。だからきっと、今朝も自分をからかっただけなのだろう。
捜査が進んで犯人の名前が発表されればすぐにわかることだ。
……もしも精神異常者だったら、名前の公開はしないんだろうか?
電車が目的の駅に止まったので、考えるのは中断して車内から出た。



午前九時から始まる一限目の授業に合わせて、八時五十分に教室に着くようにしている。
席は決まっていないから、なるべく後ろの隅の席を選んで座った。まもなく安田美菜実(やすだみなみ)がやって来て、陽子の右隣に座った。
「おはよー。そのワンピ可愛いじゃん」
「そう? バーゲンで安かったから買った」
「陽子、買い物うまいよね。や、陽子だから何着ても可愛いのか……スタイルいいのは得だよねえ」
陽子は食べても太れない体質で、胸もお尻も貧弱なのが密かなコンプレックスだった。だから美菜実のような柔らかそうな体型がうらやましいと思うけれど、お互いに、無いものねだりをしているのだろう。
あと五分で授業が始まるが、陽子は美菜実に尋ねてみることにした。
「ねえ、美菜実って朝テレビ何観てる?」
美菜実は横にしたドングリのような目をまん丸にして、
「あ! あれでしょ? ……天気予報の」
最後の言葉はほとんど囁きだった。美菜実は可愛らしい童顔に、悪巧みを思いついたかのようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「陽子も観た?」
「うん、すごかったね……本物だったんだよね?」
「たぶんね。刺した犯人がそこに突っ立ったままなのに、周りの人みんな逃げもせずにシーンとして……あーリアルだとこうなるんだーって、すっごいドキドキしちゃった」
美菜実は夜寝る時にぬいぐるみでも抱えていそうな子なのに、ホラー映画や怪談話が好きなのだ。陽子も昔からそういうものに興味があって、その縁でふたりは仲良くなった。
「ユーチューブとかニコニコに動画上がってたよ」
「そうなんだ。でもすぐ消されるでしょ」
「だろうねー。でもあとでもっかいスマホで観てみる。陽子も観たいでしょ?」
陽子は、現実に起こった殺人事件にはあまり興味はない。が、美菜実はこのとおり、猟奇的ならなんでもいいというスタンスである。
「うん、観れるならね」
チノがあんなことを言うから、この事件に関しては、どうも気にせずにはいられなかった。

 放課後、陽子は美菜実と食堂に行き、隅の方の席を陣取った。
美菜実のiPhoneでユーチューブのアプリを立ち上げ、「天気予報 殺人」というワードで検索すると、何件かの動画が引っかかった。しかしすでに大半が削除されていた。
「あ、これまだ観れるよ」
美菜実が弾んだ声をあげて、その動画を再生する。
わずか一分ほどの短い映像だった。女子アナが異変を察して振り向いたところから始まっている。
カメラが、犯人と被害者の少年へゆっくりとズームして寄っていく。
不気味で、やはり見覚えのない男だった。
男が上目遣いにカメラを見た。これは朝観た時には気付かなかった。虚ろだが、どこか恨みがましく濁っていて、ぞっとするような眼差し……。
それから男が緩慢に動き出し、止まっていた時間が再び流れたようになった。遠巻きにうかがっていた野次馬達が叫びながら逃げ出して、警備員達が建物の方から駆け寄ってきた。カメラマンも我に返ったのか、動揺を表すように大きくぶれた。その後すぐにスタジオの様子が映り、動画はそこで終了した。
「わざわざ生放送中に人殺すとかさあ、相当自己顕示欲強いんだろうねー」
陽子はあいまいな返事をした。
「やっぱ頭おかしい奴かな? 見た目からしてヤバそうだし」
「そうだと思うよ……だってこんなの、捕まること前提の犯罪だし」
「だよね、普通は人殺したら必死で隠すもんだしね。でもこんなので殺されたらヤダなー。死んだ高校生、めっちゃかわいそう。たまたま犯人の一番近くに立ってたってだけだろうしね」
陽子の反応が悪いからか、美菜実はベージュブラウンのボブの毛先をいじりながらスマホを鞄にしまった。
「陽子、夏休みの予定あるの?」
美菜実は話題を変えた。陽子はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら首を振った。
「特に決まってない」
「高橋君と出かけたりしないの?」
陽子は黒い液体を眺め、高橋壮太(たかはしそうた)の猛禽類めいた横顔を思い浮かべた。最近横顔の印象が強いのは、話をしていても上の空で、陽子の方をろくに見もしないからだろう。
「旅行しようかって話もあったけど、最近バイトが忙しいんだって」
「ふーん。どっちかが忙しいって言い出したら、ヤバいよ」
美菜実は頬杖をついて意地悪く笑った。
「経験者の言うことは重みが違うわ」
陽子が笑って茶化すと、美菜実は目を眇めて乾いた笑い声をあげた。
「あははー、言いますねえ」
美菜実はつい一週間前に、高校生の時から付き合っていた男と別れた。その元彼は壮太の友達で、陽子と壮太が付き合うことになったのは、美菜実がセッティングしてくれた飲み会での出会いがきっかけだった。
美菜実は別れた当日に陽子に電話をかけてきて、二時間ほど泣き喚きながら元彼の悪口を延々吐き出し、一日だけ大学を休んだ。その後は驚くほどけろりと立ち直っていた。美菜実のあっけらかんとした性格には憧れる。自分だったら、彼氏と別れたりしたらきっと半年ぐらいショックを引きずるだろう。
「夏休み前にフリーになるなんて大誤算だったわ。……なんも予定ないなら一緒に海行こうよ! 就活地獄の前に一夏の思い出作らなきゃ!」
「うーん、まあ、考えとく」
「あーでも、夏休みはモデルの仕事稼ぎ時なのか。水着モデルとかやるの?」
「まあ普段よりは増えると思うけど、別に売れっ子じゃないからね……それに私、一応水着NGって事務所に言ってるんだ」
「そうなの? なんで? スタイルいいんだからやったらいいのに」
「やだよ。胸全然ないもん。荒野しかない」
「あはは! ないことはないじゃん。ジェーン・バーキンみたいでかっこいいよ」
「それ、胸ないって言ってるのと同じだよ!」
ふたりは笑い、陽子はふと生まれ故郷のことを思い出した。去年は帰省しようという考えすら浮かばなかったけれど……今年はどうしようか。
今さら、父に連絡をする気にはなれない。

 今日はバイトだっけ? 忙しい? 夜、時間あるなら会いたいんだけど。
美菜実と駅で別れてから、電車の中でそんなメールを打ち、壮太に送ってから三時間が経っていた。
メールの返事を待ち続けることだけに神経がいってしまい、夕食を作るのも面倒になって、コンビニでサラダとおにぎりをふたつ買って済ませた。一人暮らしを始めてからこんな食事が増えてしまったが、その度に罪悪感を覚える。仮にもモデルだから、事務所のマネージャーからスタイルや体調の自己管理は厳しく言われているのだ。しかしそれ以上に、陽子が気にするのは母の言葉だった。
――口に入れたもんがそのひとの身体を作るのよ。だから、食べもんにはちゃんと気をつかわなだめよ。
母は京都生まれで、父の実家に嫁いで陽子を産んでからも訛りはあまり抜けなかった。
村でも評判になるほどの美貌の持ち主で、抜けるような白い肌と上品な雰囲気を兼ね備え、実の母でありながら憧れの存在だった。柔らかな京都訛りが素敵に思えて陽子も真似した時期があったが、信平に気色悪いとからかわれ、泣かされてすぐにやめてしまった。
「……変なもの食うな」
食事を終えて折りたたみのテーブルを片付けていた陽子に、チノが苛立たしげな声をあげた。
チノはベッドを占拠して、目を閉じてぐったりしている。
陽子がコンビニ食や外食で済ませると、チノは決まってこんな状態になる。その因果関係は謎だ。チノに彼女自身の正体について尋ねても、ろくな答えをくれない。陽子はすでにチノの存在についてあれこれ考えを巡らすことはあきらめていた。
とりあえず、チノが陽子の前に出現するのは、陽子の月経の期間に限られている。
チノは陽子以外の誰にも見えていないが、陽子にだけは肉体的にも干渉できる。だから一概に「幽霊」と判断するのも難しい。
基本的には口うるさいだけで無害だが、過去に一度だけ、陽子はチノに酷い怪我を負わされたことがあった。
――十一歳の陽子が、博子と山で遊んでいて初潮を迎えた時のことだった。
隠れんぼをしていた陽子はふと違和感を覚えてスカートをめくり、下着が赤く染まっているのを見て慌てた。
「ひ、博子ちゃん……」
怪我をしたのだと思って、不安になって博子を呼んだが近くにいなかった。涙目で立ち上がり家に帰ろうとした時、肩を掴まれて振り返ると――真っ白な女が立っていた。
ぎょっとしたが、すぐに綺麗なひとだと思った。
少しだけ、母に似ていると思った。
女は親しげに笑って、「お前が新しいのか」と言った。意味がわからなかった。
「あ……の……誰ですか……」
女が何も答えず笑っているので、怖くなってきた。
足の間から血が出ているし、なんだかお腹が痛い気がするし、知らないひとと話してはいけないとお母さんから言われているし……様々な感情が陽子の脳裏に渦巻いて、混乱し、女の前から走って逃げ出した。
すると女が追いかけてきた。ますます怖くなって、泣きながら陽子は走り続けたが、女はあっという間に追いついてきて、陽子の右腕を乱暴に引っぱり、華奢な身体を草むらに転がされた。
殺される、殺される!
大人にこんな乱暴をされたことはなかった。ましてや若い女の人に……理由がわからず、ただただ不安で恐ろしくて、陽子は目を見開いて泣きじゃくった。
そんな陽子に女は馬乗りになって、容赦なく睨み付けてくる。
「泣くな」
それは無茶な命令だった。
「た、助けて……」
「泣くなと言ってるんだ!」
女は陽子の左頬をとんでもない力で殴った。殴られたのも初めてのことだった。信平に頭を叩かれたことは何度かあったが、そんな物の比ではなかった。ショックで涙は止まったが、あまりの恐怖に心臓も止まりそうだった。
殺される……!
「陽子ちゃん!?」
その時、博子の声がして、子どもらしい軽やかな足音が聞こえてきた。
「どうしたの陽子ちゃん!?」
女が陽子の上から退いて、足元に佇んでいるのを陽子は呆然と見つめた。それから走り寄って来た博子に目を向け、
「博子ちゃん、逃げて、逃げて……」
かすれた声で必死に言ったが、博子は女に目もくれず、陽子の腕を掴んで起き上がらせた。
「大丈夫? こけたの? ほっぺたすりむいてるよ」
「ち、ちがう、このひとが」
「え?」
博子の不審そうな顔から、女の方へ視線を戻したが――女はすでにいなかった。細い木がまばらに生えているだけの拓けた場所で、一瞬にして身を隠せるようなところではないのに、まるで掻き消えてしまったかのようだった。
「……今、女の人がいて」
「誰もいなかったよ……?」
博子は青ざめて震える陽子に肩を貸して、家まで付き添ってくれた。
迎えた母は陽子の様子と青紫の傷を見て驚き、すぐに応急処置をしてから飴湯を作ってくれた。布団の上で生姜のきいた温かい飴湯を飲むと、凍っていた心が溶け、緊張も途切れてしまったのか、陽子は耐えきれず大声で泣き喚いた。
よしよしと言って抱きしめてくれる母の胸に頬を寄せ、陽子は下着が汚れたことと、おかしな女に殴られたことを話した。
「あら、チノカミサマに会ったんやね」
母は事もなげにそう言った。
その時母は、少しだけ憂鬱そうに顔を曇らせたが、本当にほんの一瞬のことだった。
「チノカミサマ?」
「そう……お母さんの家で大事にされてる神様のことよ。陽子が大人になったから、姿が見えるようになったんやわ」
「神様……? でも、怖いひとだった」
母は困ったように微笑んだ。
「殴りはったんや」
「うん……」
「チノカミサマはちょっと、怒りっぽいから……今度からは、目を見んようにして、お話もせんようにしたほうがええかもね。もう二度と、陽子に酷いことせんといてくださいって、お母さんがお願いしとくわ。怖い思いさせてしもて、ごめんね」
「もう、叩かない?」
「なんで叩かれたんやと思う?」
「……わかんない。……泣くなって言われた」
「チノカミサマは陽子と仲良しになりたかったのに、陽子が怖がって泣いたから、びっくりしはったんかもしれんよ。神様でも、怒ったり笑ったり、悲しんだりしはるのよ。でも、いきなり叩くのは酷いなあ。それもちゃんと言うとくからね」
母の話を嘘だとはまったく思わなかった。何しろ陽子は実際にチノカミサマに出くわして殴られたのだ。
それからは母の言いつけどおり、陽子は女を見ても無視するようにした。女も、陽子を睨みはするが、話しかけてきたり手を出すことはなくなった。
――スマホに新着メールが届いて、陽子ははっとしてすぐに確認をした。
待ちわびた壮太からの返信だった。
しかし、期待していたものではなかった。
『ごめん、今さっき気付いた。今日は都合悪い。ごめん』
二回も謝ってくれるのはいいが、そんなことより、次にいつ会えるか具体的な返事がほしかった。
『次いつ会えるの?』
さっそく送ると、すぐに壮太から返信があった。
『わからない。なるべく早めに連絡する』
思わず舌打ちした。
壮太と付き合い始めて、ようやく半年といったところだ。陽子は男と付き合うのはこれが初めてだが、半年くらいならまだお互いに盛り上がっていてもおかしくないと思う。陽子の気持ちは付き合い始めと同じくらい強いのに、壮太の方は明らかに冷め始めていた。
――私そんなに、つまらない女なのかな。
かっこよくて話も合う理想の男と恋をしているのに、陽子は日に日に落ち込んで、自信をなくしていった。
スマホを充電器に戻して、床から立ち上がった。憂鬱で風呂に入るのも面倒だったが、一日でも髪を洗わないと気持ち悪い。
ユニットバスの洗面台の前に立ち、鏡の中の辛気くさい顔を睨み付けた。
取れかけた毛先のパーマを指でつまみ、ため息をつく。カラーも抜けてまだらっぽくなっていて、なんだか垢抜けない。そういえば前にカフェで会った時、壮太は隣の席に座っていたナチュラルなセミロングの女の子をちらちら見ていた気がする。最近は明るい髪色も流行っていないし、自分にはストレートの方が似合っているように思う。
念のためにマネージャーに髪型を変えると報告してから、明後日にでも美容院の予約をしようと決めた。

Ads by TOK2