―俺は、兄を殺そうとしたことがある。
確かに誰かがその中にいるはずなのに、全くその気配を感じさせない。
まるで悪趣味ないたずらのように、静まり返っている。
閑静な住宅街とはよくいったものだ。確かに閑静である。静かにも、ほどがあるくらい。
一体どんな人間がその一様に白い壁に覆われた箱庭のような小さな家々の中で生活をしているのか、
一体どうすればそんなに音を立てないで暮らしていられるのだろうか。
静かな生活。異常なほどの静かな。しかしそれは彼にとってはうらやましいほどの生活だった。
彼には平穏がない。日々混沌とした気分で、心身をけずりとられるかのような生活を送っている。
彼はそう思っている。
その原因は、すぐ隣にいる彼の兄にある。
緩くウェーブのかかった明るい髪に、いつも派手な柄のシャツを着ている。
そして口元にはいつも皮肉げな笑みを浮かべ、彼の周囲にぴったりとつきまわっている。
昨夜、彼の兄は近所の犬を殺した。
この死んだように静まり返った住宅街の中で唯一異物といっていいような無駄吠えの過ぎる犬だった。
近隣の家々からも多々苦情はあったらしい。犬の主人は取り合わなかったが。
しかしその犬も、もういない。兄が殺したからだ。
昨夜は大騒ぎだった。この住宅街のどこにこれだけの人間が住んでいたのかと不思議に思うほど、
沢山の人間が集まってきて、犬の主人の家を囲んだ。
犬の主人は小太りで愛想の悪い中年男だったが、愛犬の死に人目もはばからず号泣していた。
犬は無惨な死に方をしていた。とはいえ彼は直接それを見たわけではない。
彼の兄が逐一話をしてきかせたのだ。嘘だとは思えなかった。兄は、確かにそういったことを平気で行える人間だから。
犬がいなくなって、住宅街には静寂が戻った。
あまりといえばあまりに静まり返っている。もしくは、犬を惨殺するような変質者が近所にいるかもしれないと脅えているのか。
しかし彼には見えない恐怖に脅えている余裕もない。脅威は、すぐ目の前に確かに存在し続けているのだから。
公園のベンチに、二人は並んで座っている。
「なあ陽司」
煙草の紫煙を勢い良く吐き出すのと同時に、弟に話しかける。
「なんか、おもしろいことしたいなあ」
陽司は応えず、ただ少し俯いて、地面を這う蟻の行列を見つめている。
「なあ、聞いてる?」
「……明良一人で勝手にすればいいだろ」
陽司は掠れるほど小さな声で呟く。明良はしばらく陽司をぼんやりと見つめ、ふと微笑む。
半ば強引に陽司の肩に腕を回して、その顔を覗き込むようにして笑う。
「んなこといって、どうせ最後には協力してくれるくせに。優しいもんね。ヨウジちゃんは」
陽司は黙したまま、ずっと蟻を見つめ続ける。
そうしていないとすぐに心がばらばらになりそうだった。
夕暮れの河川沿いの道は、真っ赤に染まる。
ゴミが氾濫している薄汚い川も、服をドロだらけにして笑っている小学生の群も、
大きな買い物袋をさげてベビーカーを押す主婦も、必要以上に身を寄せ合って歩くカップルも、
皆、真っ赤に染まっている。
明良と陽司ももちろん真っ赤に染まる。
そのまま、夕日の赤に混じり合って消えてなくなってしまえばいい。
自分も、兄も、なにもかも―そんなことをふと陽司は思う。
自分の数歩後をついてくる陽司を、明良が振り返る。
「とろとろすんな、隣来いよ」
陽司は少し顔をあげて明良を見るが、すぐまた俯き加減になって同じペースで歩き続ける。
明良も何も言わずに前に向き直る。
陽司が、また少し顔をあげて、前を行く明良の背中を見つめる。
―思い出す。
三年前に両親が交通事故で一度に他界した。
兄は弔問客の前で悲しそうにしていたが、俺は何も思わなかった。
兄は昔から、俺より何もかも良く出来て、両親にも可愛がられていた。
そういう出来のいい子とよくない子の兄弟を持つ親にありがちなのか、両親の愛の与え方は
目に見えて極端だった。
俺はそれに気付かないふりをしていた。そんなことをあの両親に言っても、意味はないと思った。
自ら愛を乞うなんて絶対に嫌だった。
ただ、そんなカワイソウな弟に哀れんでか、兄はいつも俺を気遣っていた。だがその行為が
余計に俺をみじめにしていた。それとも、俺がそう思うことをわかっていて兄は俺に優しくしていたのだろうか。
なんにせよ、両親の葬式の日に、俺は兄をナイフで刺した。
不意に明良が立ち止まったので、反射的に陽司も歩みを止めてしまった。
明良は振り返ると、陽司の側に近付いていく。
「―手ェつないで帰ろう」
陽司の手をとろうとするが、陽司はその手を弱くはらいのける。
しかし明良はまたその手を強引にとる。途端に抵抗は影を潜める。
満足げに微笑んで、明良はまた歩き出す。
引きずられるように、猫背気味に手をひっぱられながら歩く陽司。
明良の冷たい手が、陽司の温度を受けて、次第に汗ばんでくる。
なぜ、兄を刺し殺そうとしたのか、未だに、その答えは見いだせないでいる。
そんなに兄のことを憎んでいたのか、それとも、十分な愛は与えてくれなかったけれど、
それでも自分をこの世に誕生させた人間達の死は思った以上に深刻に影響を与えたのか。
―否。答えなんて、後からいくらだって勝手に作れるものなのだ。
ただ一つ確かなこと。兄を刺したあの日から、俺の人生は俺のものではなくなった。
俺は、兄の言うことに二度と逆らえなくなった。
そんなのは、死んだも同然の状態だ。
台所に立ち、夕食の用意をしている陽司のところに、明良がやってきた。
明良はしばらく黙って作業をしている陽司の手元を見つめる。陽司も黙って明良を無視し続ける。しかし、
「面白いこと思いついた」
明良のその一言に、陽司は手を止めた。
「今から出掛けるから。俺の分も作っておいといてよ。つーか、俺がキュウリ嫌いだってこと、いい加減おぼえろよ?」
明良はそう言い残して台所から姿を消した。
小刻みに震える陽司。
まな板にキュウリを置いて、勢い良く包丁を突き立てた。