いい加減に。

 

手首に込められる力が。

 

ほんのわずかな。

 

指先の熱が。

 

ほんのかすかな。

 

単なる一端に過ぎないということに、気がついたらどうだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目眩/

 

 

 風が冷たい。
 風が冷たく通り抜けていく頬は、いつしか無数の切り傷を作り、そこから血が溢れ出し、しかしそれらも全て風が運び去ってしまってその後には麻痺という感覚しか残らないかのように、私の頬は死んでいる。
 死んだように冷たい。
 十二月の灰色の空の下であった。
 私はいつものように。セーラー服を身に纏い。数十分に一人の割合で背後を通り過ぎる他人の気配と視線を感じ。感じながら。何も感じないまま。数十メートル先で私の視界を横断する細い河川を見つめている。
 私の足元は雑草に覆われている。私はセーラー服の上に真っ黒な裾の長いコートを着て、コートが汚れることなどには構わず、雑草の上に腰を下ろしている。
 静かな河川敷。数十メートル向こうから細い紐で繋がり合った人間と雑種犬が疎らな足並みでやって来る。私はそれを少しだけ見て、目を逸らす。
 今の時刻は午後一時四十二分。
 いつの間にか私の背後までやって来ていた人間からの不審な視線を感じ、何も考えずただ前に進もうとしている雑種犬の荒い呼吸を感じ、しかし同時に私は何も感じないまま、河川のほとんど変化することのない流れを見ている。
 見ているだけだ。
 それだけで。
 私の気持ちは不安定になる。
 生きているだけで不安定になる。
 しかしそれを厭う気持ちはない。
 不安定であることが、悪いことだと、決めたのは誰なのか。
 不安定ならば不安定なりに、それ以上の悪化が生じていないのなら、私については何も問題はない。
 だが不安定であることに対していくら私が大丈夫だと思っていても、周囲の人間は私のようには思えないらしい。
 それは例えば母親。
 母親は私が不安定であることを不完全だと思っている。情けなく思っている。恥だと思っている。悲しいと思っている。可哀想だと思っている。
 そう思うことそれ自体が、私の最終的な部分で均衡を保っている不安定さに、僅かながら、しかし破滅的な軋みを与える罪悪であることを、気付かないでいる。
 ただ、それに関しても私は何も思っていない。
 何も思っていないというのは文字通りの意味では決してなく、私は時折不安定な精神に爆発的な衝動を齎されて、母親を罵る。悪鬼のような形相になった母親に嫌悪を感じる。私の頬を殴る母親の手を振り払い母親の頬を張り返す。母親は一瞬呆然とした後、泣き喚く。ある程度泣き喚くと、落ち着いて、私の方を見ないように務めながら、夜中にどこかへ出かけていく。それを私は、もはや何も感じなくなった私は黙って見過ごす。そして衝動的な行動をとった数分前の自分から今の自分までの時間の過程を振り返り、そこからは特に何も感じないと結論付けて、私は再び漠然とした不安定の精神の中に沈み込む。
 背後に気配を感じる。
 私は何も感じない。
 だが、気配は已まない。
 私は、非常に稀有なことに、その已まない気配に対して何か感じ始めている。
 それは不安である。不審である。嫌悪である。そして同時に期待である。
「寒いね」
 声がした。
 私はとうとう、その気配を感じた。
 気配は、私のすぐ左隣に移動した。それは人の形に変わった。
 見知らぬ人だった。
「ここいい?ってもう座ってるけどね」
 その人は微笑んだ。
 私は無表情を装った。無機質な表情を見せた。
 そうすると、大抵の人間は拒絶されたと思い、すぐに立ち去ろうとする。私に何らかの興味を覚えて近付いて来た人間は何人かいたが、それらは総じて、そうやってすぐに立ち去っていった。
 だがその人は微笑みを絶やさず、しかし私から顔を逸らして、先程まで私がそうしていたように、河川に視線を向ける。
「おもしろいのかな」
 独り言のようだったので私は返事をしなかった。
「おもしろいとは思えないなあ。寒いし」
 なんだろう。この人は。
 その人が私を見た。
「君、高校生?」
 興味本位で私の隣にやって来た人間達が必ず口にするのと同じ言葉だったので、私はにわかに幻滅した。しかし、幻滅、という気持ちが生まれたことには驚いた。私はこの一瞬間に、この見知らぬ人に過大な期待をしていたことになる。
 私が答えないので、その人は不安定な顔をした。
 同じか。
 たぶんもう数分もしないうちこの人もここを去るだろう。
 だが。
「わかった。君はセーラー服だ」
 意味不明の言葉だった。その人は自分で言ったその言葉が気に入ったようで、フフフと笑った。
「可愛いね。どこの学校の?」
 私は心が冷たくなっていくのを感じた。低俗な言葉の羅列。聞いていられない。
 私は感じている。不愉快を。
 しかし。
 私は自分が、なんであれ、何かを感じていることに驚いた。
 ふと、空が薄く青みがかっていることに気付いた。
 色が出来た。
「ナンパ」
 唐突にその人がまた意味不明なことを呟いた。
「こういうやり方で合ってるのかな? 初挑戦なんだけど」
 私は何も答えない。ただ、視線は逸らさない。
「うーん。難解なんだね」
 その人は何故か微笑み続ける。
「ウソだけどね。失敬」
 独白が続く。
「名前は?」
 私は答えない。
 早く去ってほしかった。
(本当は去ってほしくなかった)
 何も言わなかった。
(何か言わなければと思った)
 どうして?
(どうして?)
「本名は言えない」
 私は、言った。
 その人はただ微笑んでいた。
「じゃああだ名でいいよ」
 その人は言った。
「あだ名もない」
「じゃあ、君の好きなように僕は君のこと呼ぶことにする」
 私は考えた。
「……ミワ」
「ミワか。じゃ、それでいくと僕はセリ」
 私は少し驚いた。
「セリ。なかなかいいね。モデルみたいで」
 その人は自分で言って笑った。
 この人の思考回路はおそらく低俗だ。ただ、言葉における部分の大半がそうなのであって、低俗でない部分の方が比率として高い。それを、見せないようにしているのだ。
 私ははっきりと、この人に興味を覚えていると自覚した。
「実は、ミワの存在を知ってミワを意識し出したのは回数にして三十四回。ミワに声をかけようと考えて断念したのが十回。実行したのは今日が初体験」
「前から知っていたということ?」
「勝手に知っていたってこと。ミワはいつもここにいるよね。どのくらいいるのか知らないけど、僕がこの道を通る時間帯には大体いたね」
「私は確かに毎日ここにいる」
「セーラー服と機関銃」
 その言葉は私には不可解だった。
「毎日はいないでしょ?」
「……毎日来るよ。ここに来るという行為が実行された日だけが、私の生きている時間としてカウントされるの」
 私はこういった言葉を意図的に使う。こういう言葉を使っていると、他人は、私を「不思議系キャラクターを演じて自己世界に浸っている低能な少女」と認識する。その認識を私は意図的に操作している。そういう認識を受けている方が、私にとっては様々な面で都合がいい。
「ふうん。なるほどね」
 セリは呟いた。
「それなら辻褄が合うね」
 セリはまた独白した。
 セリもまた、私と同じく、意図的に不可解な言葉を吐くのだろうか。そうして他人の認識を混乱させることを要としているのだろうか。
「今更だけど、僕はミワと仲良くなりたいんだよね。だめ?」
「……友人関係を築くのに同意を求められたのは初めてだわ」
「あっ、そっかー。変だね。ごめん。でも僕たちついさっき出会ったばっかりじゃない。でも僕はとりあえず出来るだけ早くもうすぐにでも君とトモダチになりたいんだよね。だから手っ取り早く同意を得たいという意識が突っ走ってしまったようでした」
 セリはあまり要領を得ないことを言ってにっこりと笑った。その顔は魅力的だった。
「構わないわよ。私はセリと友達」
「マジで? やったあ」
 セリはにこにことしている。先程からずっとその顔をしている。笑顔を作るのは、私にとっては非常に労力を消する行為なので、セリはある意味賞賛に値する。
「じゃあ、帰るね」
「えっ?」
 私は無意識にそんな声を上げていた。驚いて、そして赤面した。
 他人が、自分の前から消えてしまうことをこんなに残念がる自分の浅ましさが恥ずかしかったのだ。
「今日の目標はとりあえずミワに僕の存在を知ってもらって、あわよくばトモダチになってもらおうという算段だったの。首尾よく剛を制しましたので今日はこれにて」
「柔よく剛を制する、ね」
「わあ。ツッコミが入るってさすがトモダチっぽいね」
 セリは何がそんなに楽しいのか、酷く楽しそうだった。
 酷い。
 セリは酷い。
 そんな風に思ってしまった。
「突っ込んでなんてないわ。訂正よ」
「うんうん」
 今の私は一体どんな表情をしているのか。
 きっと、酷い顔だ。
 情けない顔だ。セリに行ってほしくなくて、求めて強請る卑しい顔をしているに違いない。
 そんなのは、嫌だ。
 そんなことをしたくないから。
 したくないから私は。
「また明日」
 セリは言った。
 途端に、寂しさは半減し、嬉しさが芽生えた。
「……明日」
 明日がある。
 何も感じない私には今日しかなく、明日などという概念は存在しないに等しい。
 なのに、今はそれがある。それが産まれた。
 誕生することの幸福が少し理解できた。
 物凄い速度で私の中味が入れ替わっていくようである。
 それは決して不愉快ではない。
 何の前触れもなしにやって来たこの人に、私は洗われていく。
 どうしてこんなことが。
 それが予め決まっていたことだと言うならば。

 ―もっともっとずっと早くにやって来てほしかった。

 

 

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