コンビニからの帰り道、既に辺りは薄暗くなっていたが、人にぶつかるほど視界不良ではなかった。しかし、俺は人とぶつかって、派手に尻餅をついてしまった。ぶつかってしまったというよりは、相手が曲がり角のところでタックルを決めてきたと言っても差し支えない勢いだったのだが。よほど急いでいたのだろう。ぶちまけてしまったカバンの中身を引っつかみながら戻して、カードを拾った俺を一瞥することもなく、相手は走って去ってしまった。俺はとりあえず追いかけた。「すいません!」「落し物です!」と叫びながら走ってみたが、一向に相手はこっちを向いてくれない。それどころか、まるで俺がその人を必死に追いかける変質者みたいな絵になってしまい、時折通行人たちが不振な目を向けてくるのに居たたまれなくなって、途中で走るのをやめた。が、まだ見失わないうちに、その人は小奇麗なマンションの中に入っていった。きっとここに住んでいるのだろう、住まいがわかったなら、そんなに急ぐことはない。今日は非常に急いでいる風だったし、部屋番号までわざわざ調べるのはなんとなく躊躇われる。バイト先から俺の家までの帰り道とカブってるし、今後偶然的にまたあの人を見かけることがあれば、このカードを渡してあげよう。
 銀行のカードだ。暗証番号を調べる術など知らないので、別に悪用するつもりはない。カードにはカタカナで名前が表記してあった。

「エンドウ サイコ」

 サイコ。コはたぶん子供の子だろうな。サイはどんな漢字かわからない。サイ子さん、か。
 ……実に、運命的だ。
 彼女と俺は、出会うべくして出会ったんだろう。
 ちょうど、俺は女の「名前」を模索しているところだった。
 サイ子。いい名前だ。ヒッチコックの映画のタイトルと同じなとこもいい。俺はテレビで「鳥」しか観たことないけど。
 早速家に帰って、「彼女」をサイ子と名付けた。彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「サイ子、今日は何を食べようか」
「何でもいいわ」
「何でもいいってのが一番困るよなあ。まあ、いいよ。じゃあ、好きな食べ物はなに?」
 するとサイ子は悲しそうな顔をして首を振った。しまった、この質問はまだ彼女には答えられないものだ。
「ごめんね、サイ子、今日はじゃあ、僕の好きなものでいいかな?」
 サイ子は優しく笑ってくれた。ほっとする。
 ……でも、やはり名前を付ければいいと言うものじゃなかった。彼女のパーソナルな情報がもっと必要だ。彼女をもっともっと「サイ子」に近づけなければ。

 

 朝の5時からマンションの前で待っていたが、彼女が出てきたのは8時半だった。結構早い出勤だ、それとも登校か。そういうのもちゃんと調べないとな。片手に大きなゴミ袋を抱えていた。
 ゴミ捨て場に袋を置いて、彼女は少し小走りに駅の方向へ歩いていった。
 髪はこげ茶、肩より少し長いくらい。色白、細身、服装はラフで、ジーパン姿が様になっている。顔はパーツなどの詳細はわからないが、かなり可愛いことは確かだ。年齢は20代前半だろう。なかなかいい。俺のサイ子として理想的だ。早速俺は、彼女が捨てたゴミ袋を抱えて家に帰った。
 中身は、パンやスナック菓子の袋、カップ麺やコンビニ弁当の残骸も結構ある。自炊はあまりしないようだ。鮭とシーチキンマヨネーズのおにぎりの袋が多い。ペットボトルや欠けた食器も平気で同じ袋に詰め込まれているから、そんなに几帳面な性格ではない。化粧品らしきもの、一体どんな風に使用するのかわからないものもがあるが、ファンデーションがまだ半分くらい残っているのにもったいない。でもこれは活用できる。小説やマンガに挟まれている宣伝チラシやしおりも多数。結構読書家のようだ。このチラシからどういった種類の本を好んでいるのかもわかる。茶色に変色した血液がべっとりついたティッシュが出てきて一瞬ヒヤリとした。鼻血でも出したのだろうか。煙草の吸殻。喫煙家に対して俺は特に思うところはないが、彼女は少し吸いすぎだ。ストレスが多いのだろうか。一通り調べたが、今回は大した収穫がない。衣服や下着類があればよかったのに。別にいやらしい目的ではない、サイ子に着せてあげるためだ。健康食品、化粧品会社のDMなどには一切興味がないのですぐゴミ袋に戻した。DMの宛名を見ればサイ子の名前の漢字や住所部屋番号なども判明するわけだが、「俺のサイ子」と「エンドウサイ子」にはある程度の差がなければならない。見た目や趣味趣向は「エンドウサイ子」からいただいてもいいが、「俺のサイ子」に「エンドウサイ子」の事務的なデータは必要ない。悲しいかな人形として生まれてしまった「俺のサイ子」に一定の人間性を与えてあげるためだけに「エンドウサイ子」は必要なのだ。彼女は彼女、サイ子は俺のサイ子だ。

 

 俺はコンビニでの仕事を終えて、サイ子の待つ家に帰った。
「サイ子、今日は悪いけどコンビニ弁当だよ。鮭幕の内、好きだったよね」
「うん、私、それが好きなの。あとシチューも好き。ワンタン麺と、マカダミアンナッツのチョコと、コンソメ味のポテトチップスと緑茶が好きよ」
 よし、サイ子はどんどん学習している。
「サイ子はどんな本が好きなの?」
「中島らも、パトリシア・コーンウェル、西澤保彦、桜沢エリカ、南Q太、矢沢あい、安野モヨコの本をよく読むわ」
「僕も読んでみるよ」
「ええ、ぜひそうして」
 俺とサイ子は同じ布団で眠る。サイ子の胸に手を当ててみた。温かい心臓の鼓動を感じた。
 サイ子は生きている。
 そんな当たり前のことに感動を覚えながら、俺は久しぶりに深い眠りにつくことが出来た。

 

 またエンドウサイ子のゴミ袋を拝借して帰った。
 オレンジ系ピンクのリップグロスを発見し、早速サイ子はそれを塗った。鏡越しに目が合い、少し微笑みあった。なんて愛らしいのだろう。
 大量の髪の毛が出てきた。短い毛ばかりだった。自分で前髪を切ったのだろう。瞬間接着剤で丁寧に付けてやった。前髪が出来たサイ子は更に可愛くなった。
 ファンデーションも塗るようになり、チークや付け睫も活用するようになった。ビーフストロガノフを作ってくれた時は驚いたな。靴下を履かないと足先が冷えて眠れないことも最近知った。
 まだ生まれたばかりのサイ子。どんどん魅力的になり、意外な一面や、優しい態度に、心が温かくなる。
 俺はサイ子を愛している。ここまでの感情を抱いたのは、彼女に対してだけだ。
「サイ子、嫌な気分にさせてしまうかもしれないけど、話をしてもいいかな?」
「ええ」
「俺の母親、俺が小学生の時に、自殺したんだ。原因は親父の暴力だった。普段は優しい人だったけど、酒を飲んだら人が変わってね。俺もよく殴られたよ」
「可愛そうに」
「よくある話だよね。よくある不幸話……でも、本当に辛かったよ。俺が最初に見つけたんだ。お母さんの死体。お母さんは首を吊っていて、顔が青紫に変色して涎を垂らしていた。目玉も飛び出そうになっていた。汚らしくて、すごく、可哀想だったよ……」
「……私は、あなたに辛い思いをさせないわ。あなたのことがすごく好き。あなたとずっと、一緒にいたいの」
 サイ子は俺の手をしっかり握り締めてくれた。俺はいつの間にか泣いていた。甘えるみたいで恥ずかしかったが、サイ子の胸に顔を埋めてしまわずにはいられなかった。サイ子はそんな弱い俺を強く抱いてくれた。サイ子がいてよかった。俺はきっと救われる。
 

 

 今まで10回ほどエンドウサイ子のゴミを拝借してきたが、俺のサイ子が随分人間らしい様になったために、もうゴミ集めは終わりにしようと思った。

 

「サイ子、これはなんだよ」
 サイ子は目を合わせず、ただ、虚ろな顔で床を見つめている。
 サイ子、怒らないから、
 サイ子、ただの気まぐれなのか?
 サイ子、それならそれで、いいんだよ。
 サイ子、僕のことを一番に想ってくれているなら、それでいいんだよ。
 サイ子、君のことが好きだよ。
「もうやめて」
 サイ子がそんなことを言った。
「あなた、重いわ」
 醜く口を歪めて、そう言い放った。
 呆然とする俺の手から、使用済みのコンドームを掴み取る。指で摘んでじろじろと眺め回す姿は、異様なほど汚らわしい。
「そうね、あなたとセックスしたことなかったのが失敗だったわ。こんなものを無闇にゴミ袋に入れておくべきじゃなかった」
 サイ子は不意に顔を変えた。妖艶な微笑み。背筋がぞっとなった。
「ごめんね、あなたのこと好きよ。おわびに、あなたにもいいことしてあげるわ」
「サイ子、待ってくれ……僕はそんな」
「私のこと好きじゃないの?」
「好きだよ……」
 サイ子がゆっくりと俺の身体を這って来る。どろりとした重みに耐えかねて、俺は床に身体を預け、サイ子に全てを委ねてしまった。
 こんなことをするつもりはなかった。
 サイ子、綺麗なサイ子、君のことが好きだけれど、

 

 バイトから帰ると、サイ子がいなくなっていた。
「サイ子? サイ子?」
 6畳の狭い部屋に隠れるスペースなどあるはずがない。サイ子は、出て行ってしまったのだ。
「さ、うう、サイ子、うっ、ぐ……サイ子、どこにいるんだよお……」
 俺はサイ子の姿を求めて外に飛び出した。

 

 

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