>この、隣。

 

 中学生の時の友人だった美加にばったり渋谷で出くわした。
 そのまま流れるように思い出モードに入って、カフェでケーキを食べたり映画館に行ったりしてから、
晩ゴハンは安上がりなファミレスで、ということになった。

 

「サイ子、ちょっと痩せたねえ。いいなあ。アタシなんか中学んときと比べて10キロも増えたよ〜。
死んだ方がいいってカンジ」
 と、言いながら美加は注文したハンバーグステーキBセットを軽くたいらげ既にデザートの
キャラメルバナナパフェをスプーンでつついている。
「そう? そんなに変わってないじゃん」
 それは少しジョークである。
「それにさ、まあ、痩せたっつっても、相変わらずいろいろあるから言ってみればストレス痩せだよお。
痩せたってかやつれたってカンジかも」
「いろいろー? ……あー、あんたまだアレなんだ。オバケにモテモテなんだ」
「そうそう。大迷惑だけど」
「中学の時からそうだけど、相変わらず変な子だよねえサイ子。霊感がある子ってさあ、もっとなんかあ
マンガとかだと、こう、髪の毛ダラーっと長くて黒くて、顔青白くて、あなたの肩に霊がのってる〜とか
ぼそぼそ言ったりしてさ、おめえが幽霊だよ、みたいなカンジじゃん。サイ子見た目も性格もそんなん
じゃないもんね。オバケにだけじゃなくてフツーにモテてたし。誰彼構わずあたしオバケ見るんだーとか
言いまくってたくせにさ」
「そう、あはは、それほめてんのけなしてんの?」
 そんな会話を交わした後、不意に美加が黙り込んだ。
 キャラメルバナナパフェを掬うスプーンが動作を止める。
 どうしたの、とでも言おうとしたけど、美加の顔をちょっと見ると、なんだか妙に青ざめていて、心なしか
全身が震えているので、その物々しい雰囲気に何も言えなくなって私も黙ってミルクティーを口に運び続けた。
「サイ子、もう出ない?」
「えっ、うんいいけど?」
 ちょうどミルクティーを飲み終えたところだったので、美加の意向に逆らわず、私と美加はファミレスを出た。
 美加はなんだか早足で、辺りをきょろきょろとしている。なんだか挙動不審だけど、私はまあ構わないで
おこうと思い黙って彼女についていった。
「あ、ここでいいや」
 急に美加が明るい声をあげて、一軒のコンビニに向かって小走りになった。
 コンビニに入るとすぐに店員に向かって「すいませんトイレ貸してください」と言う。茶髪で細い目の
気だるそうな男の店員がどぉぞ、と呟くと美加は慌てた感じでトイレに入った。呆然としながら待っていると、
次にトイレから出てきた美加の顔は、全ての憑き物が落ちたかのような晴れやかさだった。
「ファミレスから我慢してたの?」
 コンビニから出てすぐに私が聞くと、美加はちょっとハズカシそうに頷く。
「ファミレスで行けばよかったのに」
 そう言うと、美加はまた憂鬱そうに表情を曇らせる。
「だって……」
「なによ」
「……サイ子のせいだよ」
 いきなりそんな風に言われて驚いた。
「なによそれ? どういうこと」
「……ううん、ごめん。サイ子が悪いわけじゃなくって……サイ子が幽霊見る子だったってこと思い出したら、
一緒に思い出しちゃったことがあって……」
 ―そして美加の話を聞いた。

 

 美加は友人(誰かはよくわからない)と一緒に、どこかのファミレスに入った。そこで普通に食事をして、
友人とくだらない話題で盛り上がって居座り続け、ドリンクバーでジュースを飲みすぎてトイレに行きたく
なったので席を立った。
 そこのトイレはどこのファミレスでも大体そうだが、店の奥まったところにあって、中には個室が2つ並んでいて
割と清潔そうなごくごく普通のトイレ。そのうち奥の方の個室には誰かが入っていたので、当然美加は
空いている方の個室に入った。便器に腰掛けて用を足している時、隣の個室と共有している側の壁から、
何か音が聞こえるような気がした。どんな音かははっきりわからない。
 用を終えて、出ようとすると、隣の個室の誰かが、壁をドン、と叩いた。
 驚いた美加は思わず立ち竦んでしまった。
 隣の誰かはまた壁を叩いた。また叩いた。
 次第に叩く強さがひどくなってきて、美加は怖くて個室から出られなくなってしまった。
 出たら、隣の誰かも個室から飛び出してきて、襲われるんじゃないかと考えてしまったからだ。
 声をあげたりして隣の誰かを余計煽るのも何もかも怖くて、美加は震えながらずっとその場に立ち尽くし続けた。
 壁を叩く音はなかなかやまない。そのうちに、叩く音だけではなく、壁をがりがりと神経質に引っかいたり、
ばしゃばしゃと妙な水音がしたり、とにかく隣の人間が狭い個室で暴れているのが伝わってきて、
物凄く不気味でたまらない。
 一体何がしたいのか、自分を怖がらせたいだけなのか、それとも、病気かなにかで発作が起きて苦しんでいるのか、
そもそも、隣にいるのは、人間なのか―。
 ―人間じゃなかったら。
 足元から首筋まで電流のような悪寒が走り、美加は思わずその場にへたり込んでしまった。
 すると、急激に物音は止み、トイレは死んだように静まり返った。
 それが余計に美加の不安と恐怖を煽った。
 (一体隣には何がいるの? 一体アタシに何しようっていうの?)
 いくら清潔そうとはいえトイレの床であるが、そんなことを気にしていられる余裕などなく、美加は震え続ける
身体を必死に支えるために両腕と両足をべったり地に付けて四つんばいのような恰好で耐えていた。
 無論視界はトイレの床一面になる。
 その視界の中に、見慣れぬものがあった。
 あって当たり前のものは、自分の両手だけ。
 しかし、あってはならないものが。
 ―自分のじゃない、手が。

 あり得ないほどに、真っ白な手だった。

 美加は思わず、その手の先を追って視線を移動させた。
 ほっそりとした指先だった。シミ一つない若い肌、しかし恐ろしいほど白くて、すっと伸びている腕も白くて、
腕は、隣とを遮る壁の、床との間に少しだけあいているその隙間から美加の方へ伸びていて、

 ―その隙間から、手と同じだけ真っ白な顔をした、本当に「顔」という存在感だけしかない誰かが、
美加の方を上目遣いに覗き込んでいた。

 

「怖っ!」
 私はつい叫んだ。
「あんたが言わないでよ、それくらいいつもみてるんでしょ?」
「そんなことは……ないことはないけど、なんか人の話って怖いんだー。ホラー映画とかも苦手だし」
「そうなの? 知らなかった……まあ、でも、アタシのはあんたと違ってただの夢の話だし」
 そう、美加を襲ったその奇怪な「誰か」の話は、別に美加が実体験したわけじゃなく、ただの夢。
「ただの夢だからさ、別に忘れてたんだ今まで。でも、オバケの話とかファミレスとかって、急に
思い出しちゃってさ、なんかすごい怖くなって」
「そうだったんだ。ふーんそりゃ確かに怖いよねー」
「しかもさあ、そのオバケ、なのかな? 男か女かもよくわかんなくて、髪の毛がなくてっていうか、
ボウズとかじゃないんだけど、なんか……ほんとに顔だけがあるってイメージ? 手がこっちに伸びてきてるんだけど、
その手もその顔とはなんか別物みたいな……よくわかんないんだけど」
 そう言って美加はブルッと大きく震える。
「ああ、ヤダ……ねえ、サイ子ってお祓いみたいなこと出来るんじゃないの?」
 ―また言われた。私も以前に遭った嫌なことをふと思い出してしまった。
「できないっす」
「そうなのお?」
 この役立たず、とでも言わんばかりの視線を投げつける美加。そんな目をされてもどうしようもない。
「まあ、夢の話なんだからさ、そんなに深刻に思うことないんじゃない?」
「……そりゃまあ、そうだよね」
美加は急にあっけらかんとした口調で言って、にっこり笑った。
「じゃ、今からカラオケでも行こう」

 

 

 それから、2ヶ月くらい経った。
 私はバイト先の子達と数人で仕事が終わってからファミレスに行くことにした。
 そのうちの1人は、私が前々から狙いを定めている2つ年上のサム・ニール似の人で、私はとにかく今回
その人に急接近してやろうとそればっかり考えてたので――そのファミレスが、以前に美加と入った場所で
あることを、トイレに入るまで気がつかなかった。
 とは言っても……美加の言った怪現象はあくまで夢での出来事だし、なによりファミレスという漠然とした
共通点があるだけで、このファミレスがあの夢の舞台だったという話では決してない。
 でも――私がトイレの入り口のドアを開けた時、そこには個室が二つあって、その奥の個室は誰かが入っていた。
 にわかに、寒気を覚えた。
 けど、生理現象の脅威にはかなわない。私は構わず空いている個室に滑り込んだ。
 そしてしばし恍惚の時を感じる。
 安心すると、また怖い気持ちが湧き上がってきて、つい隣と共有している方の壁に目をやってしまう。
 ――するとちょうどその時。

 ドンッ。

 音が、
「――ぅわっ」
 つい、小さく声をあげてしまった。
 音はまたした。ドン。ドン、ドン、ドン。
 一体誰なの。
 嫌がらせにも、ほどがある。
 私はむかついて、壁を叩き返した。

 ガンッ!

 思いの他、大きな音が立って、そしてそれから隣の音が止んだ。
 もしかして、抵抗されて気後れした?
 ――まさかね。
 とりあえず、私は一刻も早くこの個室から出ることにした。
 だが。
 一歩足を出そうとしたら、何かにつまづいた。
 そんなことありえないのに。
 少し怖かった。
 自分がつまづいたものを見るのはなんか嫌だった。
 でも、見ないわけにもいかなそうだ。
 私は決心して、足元に視線を落とした。

 そしたらすぐに、「誰か」と目が合った。

 肌は、真っ白。
 頭はツルツルで、ぎょろっとした目だけが妙に印象的な、目鼻立ちもツルっとした、たぶん女の顔だった。
 女は、隣の個室から、壁の下の方に少しだけ空いた隙間からぬっと頭全部をこちらに突っ込んできている。
 ただ隙間があると言っても、人間の頭が難なく抜けられるようなそんな大きな隙間じゃない。
せいぜい拳一つ抜けられるくらいの隙間なのに。

 まあ、今私と目が合ってるヒトは、人間じゃないことは確かだけど。

 美加の言っていた幽霊と、全く同じイメージ。

 本当だったんだな。

 にしても、その角度って、もしや私のスカートの中ばっちり見れてるんじゃないの?
 と、物凄くくだらないことを真っ先に思った。
 女は、無表情に、私を見ている。
 私は、平静である。平静を、装っている。幽霊と遭ったときは、いつもそうしている。

 「付け入られたら最後、もう後はないと思え」

 これは、誰かに言われた言葉だったっけ。
 私は、女に向かって言った。

「かえれ」

「私はお前のものじゃない」

 ―これは、私だけが出来る「対処法」。だから、普通の子に教えても、意味がない方法。
 女はいつまでも無表情だった。
 けれど、女の首は徐々に、隣の個室に吸い込まれるように、奇怪な感じで小さくなっていく。
 なぜ自分の頭よりも明らかに細い隙間を出入り出来るのか、それは、どんなに凝視しても口では上手く説明できない。
 意味不明なのだ。幽霊はそもそもそういうもんだ。「死んでいる」ことが「意味がなくなる」ことと同義なら、
幽霊っていうのはまさしく「意味がない」。意味がないってのは、確かに「何でも出来る」こととも似てる。
 だから、人間は幽霊が怖い。
 私だって怖い。
 私はとかく、「みて」しまう奴だし。
 でもそんなこと嘆いても仕方ないし。
 今はとりあえず、早くココから出ないと。
 じゃないと愛しのサムに、もしやサイ子の奴、大の方じゃねえか?などと誤解されちゃうじゃない。

 

 

 それからまた1ヶ月くらい経った。

 美加が死んだ。

 たぶん、彼女も忘れてたんだろう。

 あのファミレスのあのトイレに、行ってしまったんだろう。

 ニュースで何回かやっていた。
 美加はおそらく変質者に殺されたのではないかと思われていた。
 美加はトイレの個室の中、何物かに襲われ、窒息死したと言っていた。

 でも私は美加が本当はどんな風に死んだか知ってる。

 美加は、確かに窒息死だった。
 トイレットペーパーを、お腹がパンパンに膨らんで、食道が破裂して、口から胃液やだ液や血を吐くまで、
いっぱいに詰め込まれたのだ。
 酷い姿だった。
 そんな美加が、その事件の後街の中をふらふらしてた私の前に急に現われたから、私はちょっと驚いてしまった。
 きっと、あの白い女にやられたんだろうな。
 幽霊は時折、そういう人間のような残酷なことをするもの。
 でも幽霊にはそれをする理由はあんまりないので、余計にたちが悪いけど。
 美加は、口から血まみれのトイレットペーパーを垂らして、恨めしげに私を見つめた。何も言わなかったけど、
まあその状態で言葉を発することなんて出来ないだろう。
 私は美加に、手を合わせて、言った。
「信じなくて、ごめんねっ」
 私はとびっきりの笑顔で謝罪した。

 

END