金子が北田と出くわしたのは全くの偶然だった。
高校時代、金子と北田は3年間同じクラスだったが、グループが違っていたのでお互いに特に会話をしたという記憶もない。要するに大して仲良くもなかった。
しかし、道でばったりと北田に出会った金子が、久しぶりだな元気にしてたかよ俺のこと覚えてる?あ覚えてるマジで懐かしいなあお前これから用事あんのあないんだ俺もヒマなんだよねちょっとどっかよってかねえ?飲みに行こうぜ俺この辺詳しくないけどさお前どっかいいとこ知ってる?あ知らないまあいいやとりあえずどこでもいいから行こうよ。などと、まくし立てるように誘ったのは、金子がちょうどその日の1時間前に、5ヶ月付き合っていた女と別れ話をし終えて、その女は向こうから告白してきたクチで金子の人生にとってそれほどの重要なポジションに位置する人間でもなかった筈なのだが、いざ向こうから別れ話を切り出された時に初めて、ああ俺こいつのことかなり好きになっちゃってたんだなあということに気付いてしかし未練がましく別れたくないよ考え直してくれよともいう勇気がなく、淀んだ空気の中破局を向かえ、心にぽっかり穴があいたような喪失感にさいなまれ、なんだか妙に人恋しくなり、ちょっといいなキープだなと思っていた女友達数人と、男友達数人に連絡をとったが全員にヒマねーんだわとあしらわれ、そうするとますます泣きたいような気分になってああもうホント誰でもいいから話相手になってくれねえかな。などと思っていたところへの、絶妙のタイミングでの北田との再会であったことに要因する。
そういうわけで金子と北田は連れ立って最初に目に留まった一軒のバーに入った。
金子にとって北田の印象は、女みたいな体格に細面、これまたか細い声に覇気のない喋り方、しかし別に性格が暗いというわけでもなく話しかければ並程度の受け答えはする、要するにまあ「悪い奴ではない」。
しかし、久しぶりに出会った北田は、よく見ると目の下に薄暗い隈を作り、学生時代よりも更に痩せ、高角度前方回転えびがためをかけようものなら一発であの世行きであろうという憔悴ぶりで、いくら人恋しすぎたとはいえ変なのに声をかけてしまったとうっすら後悔してしまった。
「てゆーかバーでよかった? お前酒強い?」
「…大丈夫、人並みには飲めるよ」
喋り方は思ったよりもしっかりしているので少しほっとする。
「…金子って高校の時俺と仲よかったっけ?」
そう言われて、金子は返答に窮し苦笑いでごまかした。
「よかったっちゃーよかったじゃん。仲悪くはなかっただろ?」
「まあ、そうだけど。よっぽどヒマだったんだろ」
痛いところを突かれてまた金子は笑ってごまかす。
「いいよ。俺もヒマだったし。…他人とまともに話するの、何ヶ月ぶりだろ」
金子の笑顔がますます引きつる。いよいよまずいのに声をかけてしまったという後悔の嵐が金子の中に吹き荒れた。
二人は並んでカウンター席の端っこに座り、そしてしばし沈黙が訪れる。
「……あのう、元気だった?」
今更ながら当たり障りのない会話を始める金子。北田はそれに憂鬱そうな笑みを返す。
「元気そうにみえる?」
「……いや、なんか……悩みでもある?」
つい失礼なことを訊いてしまう。しかし北田は気にするふうでもなくただ黙って物憂げな笑みを浮かべている。その張り付いたような笑みが金子には少し不気味だった。
ウエイターがやってきたのでそれぞれ注文をする。
「…俺さあ、実は、つい1時間くらい前に、彼女にふられたんだ」
「ああ、そうなんだ。災難だったな」
そんな風には全く思っていないような抑揚のない口調で北田は言う。
「まあな。向こうから俺に告ってきたから、やっぱどっかで余裕かましてて、割とやる気ない付き合い方してたせいだろうけど、向こうから別れようって言われちゃってさ、そしたら急にそいつのこと好きになってたことに気付いちゃって、なんか馬鹿だな俺って思って、結構落ち込んだ」
大して仲良くもない奇怪な男にべらべらみじめな話をしている自分は何なんだと金子は思いつつも止まらない。とにかく誰かに愚痴を聞いて欲しかった。
「別に、いいけどさ、って思う自分もいるんだけど、やっぱ別れたくないって言えばよかったなって後悔してる自分もいてさ、ものすごい心の中で葛藤してるわけよ。なんか男らしくねえけどさ」
そして金子は自嘲気味に笑う。北田は黙って聞いている。
「こんなになんか鬱々するくらいなら、やっぱかっこ悪くても別れたくないって言えばよかったんかな?」
「……いや、別れた方がよかったと思うよ」
北田がまともな口調で返す。しかし、
「……他人とのつながりなんて、うざいだけだし、怖いよ。何が起こるかわかんないしね。一人で生きているのが一番いい」
なんだか恋愛話のアドバイスにしては殺伐としすぎていて金子は絶句してしまった。
「い、いや、でも、人間一人じゃ生きていけないって」
「いいや。人間は怖い。もう人間なんて信じられない」
―そんなことを言われて、俺はどうすればいいんだ。
金子は自然と俯き加減になってしまう。
やはり声をかける相手を間違えた。はっきりと間違えた。
そのとき注文した品がやってきたので金子は少しほっとする。これ以上シラフではいられない。金子はソルティードックを一気にあおった。ちらと隣を見ると、北田は不気味な青い色をしたカクテルに口をつけるでもなくじっとグラスの端を見つめている。その様子があまりにこの世のものではない雰囲気を醸していたために金子は思わず吹き出した。
ゴホゴホと咳き込む金子をじっとりした生気のない目で見つめる北田。
「……ああ、死ぬかと思った」
「……死ぬ」
北田が小さくそう呟く。金子は目を剥いたがなんだが恐ろしくて隣を向けない。
―なぜそんな不吉な言葉を繰り返す。
店内は冷房が効いて寒いくらいだったが、金子の額にはかすかに脂汗が浮かんでくる。
脂汗。あぶら。あぶら虫。ゴキブリ。
そんな連想ゲームが金子の中で成立して、ふとあることを思い出した。
「あ、あのさ、気色悪い話なんだけど、聞きたい?」
嫌な話は割と場持ちするので、北田の返事がどうであろうとその話をしたかった。北田はかすかに頷いた。気がした。
「俺今一人暮らししててさ、そしたら今の時期、どうしてもゴキブリが出るんだよ。だから、あれ、ゴキブリホイホイってあるじゃん。あれ買ってきて、いろんなところに置いといたんだ。で置いたらそれで安心して、何ヶ月もほったらかしにしてて……ふっと思い出したときに、捨てなきゃって思って隅っこの方に置いといた奴手にとって、そしたらなんか、怖いものみたさって奴で中味ちょっと覗いて見たくなるじゃん。ならねえ? まあそんでちらっとさ、中見たんだよ。したらやっぱ結構いっぱいゴキブリひっかかってて、うわあーとか思ったんだけど……なんか、ゴキブリにしては色が白くて、でかいなんかよくわかんないモンが見えて、なんだと思ってよく見たらさ、それが、ちっちゃいネズミだったんだよ。最悪だろネズミまで出るんだぜ俺の住んでるとこ。んでしかも、そのネズミひっかかってしばらくは生きてたみたいでさ、なんか糞とかゲロとかもいっぱいくっついててさ…ああ俺が普通に生活してる同じ部屋の中で、このネズミは気付かれることのないまま何日か身動き取れない状態で苦しい思いをしながら死んでいったんだろうな、なんて思ったらちょっとカワイソウだななんて思ったり、して……」
この話をすると大抵の人間は最悪ーとかマジーとか気持ち悪いーとかヤダーとか言ってしかめ面をするが、北田の反応はおそらく無反応か、よくて鼻で笑うくらいだろうと踏んでいた。
しかし、北田の反応は。
―尋常でなかった。
北田は痩せすぎのせいでぎょろりとした目を更に見開いて、青紫の唇はわななき、顔面は蒼白で、だらだらと汗をかいている。全身も小刻みに震えている。
その物凄い反応に金子まで恐怖を感じてしまった。
「き、北田? 大丈夫か?」
北田は返事をせず、がくがく震える手でグラスを掴むと青い液体を一気に飲み干す。苦しそうに顔を歪めながら、大きくため息をついた。
「北田? おい、大丈夫かよ?」
「だ、大丈夫、だい、大丈夫」
全然大丈夫じゃない。
「どうしたんだよ急に。俺の話のせいか?」
「うん、いや、ああ、だいじょうぶ……ちょっと、嫌なこと思い出して」
それにしたってこんな本当に死にそうな反応をすることはないだろう。金子はなんだか泣きたくなった。
「変な話して悪かったな」
「いや…」
数分ほど重苦しい沈黙が訪れ、不意に北田がウエイターに声をかけ追加注文する。金子もつられて注文をし、そうやって3杯ほど飲み続ける間ほとんど会話らしい会話もなかった。
弱くないとは言っていたが、すぐ顔に出る性質なのか、北田の顔色は赤を通り越してどす黒くなってきて、それが更に鬼気迫る雰囲気を演出している。金子も多量のアルコールのおかげで頭の芯が浮遊し、なんだかもう何もかもどうでもいい気分になっていた。
―唐突に、北田の口から声が発せられた。
「話をしてもいいか?」
「おお、なんだなんだ?」
「……口にするのもおぞましい話だけど、もしかしたら、人に聞いて貰ったほうがすっきりするかもしれない」
「おおなんでも話せよ。まかせろよ」
金子はもはやなにがなんだかわからなくなっている。北田は顔色こそ異常だが相変わらず静かな口調で、胡乱な目を金子に向ける。
「半年前の話だ。大学のサークルの1年先輩に、高岡って男がいて、そいつがある日、海外旅行に行く間、俺に部屋を貸してくれるっていってきたんだ……」