――麻里が来た。

 突然の訪問に、俺は焦った。

 今は麻里に会える状態ではない。麻里に言わなければならないことも、まだ整理出来ていなかった。
 しかし追い返すわけにもいかないので、俺は麻里を部屋に上げざるを得なかった。1週間ぶりに会った麻里はもちろん1週間前と特に変わることなく、静かな微笑み浮かべて、スーパーの袋を掲げて見せた。
「てっちゃんにおいしいもの食べさせてあげるね」
 麻里の柔らかいトーンの声が好きだ。俺は1週間ぶりに、少し笑うことが出来た。
 俺はさりげない調子で部屋中に消臭スプレーを吹き付ける。何してるの?と言われて、たばこ臭いのイヤだろ、と返すと、今更でしょ、と麻里は苦笑する。クローゼットの周辺には特に念入りに吹き付ける。
 ワンルームなので、シンクの前に立つ麻里の姿がどこに座っても目に入った。持参した赤いエプロンをつけて料理に励む麻里。……今の俺には、そんな彼女を愛しいと思う資格はない。
 俺は麻里を、裏切った。
 そしてそれ以上の罪悪を重ねた。
 ――言おうか。麻里に、全て話そうか。
 言いたくない。怖い――怖い。
 クーラーを効かせているのに、全身が汗で濡れているのが不快でたまらない。何も知らない麻里は、料理に専念している。
 その様子を無心で眺めているうちに、シチューを作っているのだとわかった。以前にシチューが好物だと言ったことがあるが、それを覚えていてくれたのだろうか。
 ……俺はなぜ、麻里を傷つける行為をしてしまったのだろう。なぜあんな、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのか。
 テレビの内容が何も頭に入ってこない。ノイズしか聞こえない。緊張のあまり、耳鳴りが酷い。
 麻里の後ろ姿と、俺の背後にあるクローゼットとに意識が交差する。

 かりかりかりかりかりかりかり……。

 爪でクローゼットの扉を引っ掻く音がする。
 胡乱のまま粘り気を帯びた30分が過ぎた。コトコトと軽快な音が部屋に響き、シチューのいい香りが少しだけ俺の心をほぐす。
「もうすぐ出来るからね」
 麻里の明るい声が、空洞になった頭の中に弾けそうなほどよく響いた。
 麻里の一挙一動に、心が揺さぶられる。麻里の姿を見つめ続けると、涙で視界が滲みそうになる。話したら、楽になるだろうか。それとも、ズタズタに切り裂かれるだろうか。
 なんにせよ、麻里に許してもらえるとは、決して思わないが……。
「――お待たせ」
 気がつくと目の前のテーブルの上にシチューの入った皿が置かれていた。
「どうしたのてっちゃん? なんか、元気ないね……ちょっと痩せたみたいだし……」
「……クーラーのせいで身体だるくなったのかも……大丈夫だよ」
 俺は笑ってみせた。
「すげえうまそう。いただきます」
「たくさん食べてね」
 シチューは本当においしかった。こんなに温かいものを口に入れて喉に流し込んだのは何週間ぶりだろう。一口食べる度に、心が溶かされ、箍が外れてしまいそうになる。
「おいしい?」
「うん、うまい。……この肉、うまいね。脂身が多いのにあっさりしてる。なんの肉?」
「豚肉。ちょっと奮発していいお肉買ったんだよ」
「うん、ほんとうまい」
 俺たちはしばらく無言でシチューを食べ続けた。
 麻里の顔を時折盗み見る。何も知らない麻里。……何も。
 ――不意に、涙が出た。
「…………っつ」
 嗚咽を堪えることが出来ず、気付いた麻里が驚いた顔をする。
「どうしたの? てっちゃん?」
「……うっ……っ」
 ――ごめん、ごめんな、麻里。
「てっちゃん……どうしたの……?」
 俺の隣の移動した麻里が、俺の肩を抱いてくれた。俺は情けなく泣き続ける。声を殺すと喉が潰れそうに痛くなった。
 全て話さなければ。
「……麻里……俺……」
 麻里の大きな瞳の中に、醜く歪んだ俺の顔があった。
「……俺、奈菜を、殺した――」


 俺は、麻里の友人・奈菜と浮気をした。麻里に彼女を紹介されたその日から関係を持った。3人で飲みに行った帰り、一人だけ反対方向の麻里と別れた後、酔っていたせいか執拗に俺の身体に触れてくる奈菜、俺も酔っていて、それを拒まなかった。けれど、理性までは失っていなかったはずだ。俺は全て心得た上で、奈菜を連れて部屋に戻った。そうしてそのまま、ずるずると奈菜との関係を続けた。心では麻里を一番に想っていると、勝手な言い訳で自分を許しながら。
 しかし、1週間前。
 奈菜が突然部屋に現われ、麻里と別れてくれなければここで自殺すると騒ぎ出した。奈菜は泥酔しており、俺はなんとか奈菜をなだめようとしたが無駄な努力に終わった。奈菜は泣き叫び、家具を破壊し、どうにも手がつけられない状態で、俺はそんな奈菜に異常なほど強い憎悪を感じた。そのどす黒い感情が溢れ出すのを抑えつける気すら起こらないほど。

 ――そんなに死にたいなら――

 なぜあんなことを。
 なぜ俺はあの手を止められなかったのか。

 ――殺してやるよ――!

 大振りなガラス製の灰皿を手にすると、冷たい感触に支配されて、もはや自分の意思をコントロール出来なくなってしまった。ただひたすら、純粋とも形容できる憎しみだけが心に渦巻いて、

 ――殺せよ! 殺せよおおおおおお!!

 奈菜が口元を歪めて、この上なく醜い顔で俺を笑った。俺には出来ないと思ったのだ。俺を、嘲笑った。

 俺は、俺は、おれは……

 グチャリ――

 
 恐ろしく虚しい感触が伝わったかと思うと、パッと赤いものが目の前で散った。
 すると奈菜が叫ばなくなった。動かなくなった。

 ――死んだ。

 その時の俺は、今思い返してもぞっとするほど、冷徹だった。
 事態を把握するのに要したのは一瞬だけで、あとはただ機械的に、奈菜の死体を処理しなければ。とだけ思った。
 バスルームまで奈菜の死体を引きずって、包丁を使って奈菜の身体を切り刻んだ。思いの外ぬめる血糊と執拗に纏わりつく薄黄色の脂肪のせいで、全然肉が切れないことに苛立った。意味不明の言葉を呟きながら奈菜の腹や腿に必要のない切り傷を無数に作った。死体を蹂躙していることに対する罪悪感など全くなかった。一通り細かく刻み終えると、シャワーで血を流し、それだけでは粘り気がとれないので石鹸で洗った。地の底から響いてくるような轟音を立てながら血膿の塊と桃色の泡をうまそうに飲み込んでいく排水溝を何十分も見つめ続けた。
 徐々に正常な感覚が戻ってきて、俺は唐突にグウ、と呻くと、腹の中のものを全部吐いてしまった。肉塊の奈菜の上に未消化の汚物をぶちまけた。それをまたすぐシャワーで洗い流すと、切り口から少しずつ血の残骸を滴らせるだけの、白い肉と鮮やかな内臓の山が残った。
 ――なぜこんなことを?
 切り刻まれ尽くした奈菜を見つめ、俺は自問自答した気がする。答えは見つからなかった。何もわからなかった。
 俺はグロテスクな肉の山を、濡れたままの状態でゴミ袋に詰めた。それを背負ってバスルームを出て、あてもなく外に出ようとした時――チャイムが鳴った。誰かが、来た。
 俺はにわかに全身を凍りつかせ、しばらくその場に佇んだ。先ほどまでの騒ぎを聞きつけた隣室の人間だろうか。それにしては時間が経ちすぎている。では、誰が――? 
「――てっちゃん」
 ドア越しのくぐもった声でも、それが、麻里の声だとわかった。その時俺は初めて、事の重大さに気付いた。俺はほんの数時間前、麻里の大事な友人であった少女を殴り殺し、無意味に解体して、それを今からゴミとしてどこかへ捨てようとしている――滑稽であり、なにより狂気だった。凍て付いた槍で頭頂部から真っ直ぐ貫かれたような戦慄を受けて、あやうく力をなくし大声で泣き叫びそうになった。だが、俺はこの状況を麻里に見られてしまうのを何より恐れ、まず行動を取らなければ、と考えた。
 麻里は合鍵を持っている。返事をせずにいれば、勝手に玄関を開ける可能性もゼロではない。俺は硬直する身体を何とか奮い立たせ、クローゼットの扉を開け、衣服を掻き分け、そこにゴミ袋を放り込んだ。扉を閉める。強く、強く――そんなことには何の意味もないのに、そうして強く閉じ込めなければ、奈菜が、扉をこじ開けそうで、恐ろしくてたまらなかったのだ。
 案の定、麻里は合鍵を使ってドアを開けた。ドアを開けてすぐ見渡せる部屋の真ん中に呆然と立ち竦んでいた俺を見て、麻里は大げさに驚いた。
「びっくりした! なんだ、いたのなら返事してよね」
 俺は無表情以外のどんな顔も見せることが出来ず、しかし必死で平静を装い、それから1時間もの間、麻里をなんとか追い返すまで、地獄のような苦痛を味わい続けた。
 ――クローゼットに入れてしまったのは、最大の失敗だった。
 俺は、クローゼットの扉を再び開けることが出来なくなってしまった。
 奈菜が生きている、という錯覚。
 扉を開けた瞬間、血まみれの奈菜が、襲い掛かってくるだろうと、本気で思った。
 この手で、あんなにも解体したというのに。あんなにも罪深い行いをしておきながら、俺にはあの時の現実感が完全に欠如していた。そして、ただ単純に、俺は全ての疚しい事実を安易に隠すために、奈菜をクローゼットに閉じ込めたと、本気で錯覚している。生きている、いつまでも生きている奈菜を。

 かりかりかりかりかりかり……。

 毎夜、奈菜は恨めしげに扉の内側を引っ掻く。出せと言っている。ここを出た瞬間、私がされたのと同じように、お前を切り刻んでやると、叫んでいる。
 部屋にいることが出来なくなり、外を彷徨った。けれどその間に奈菜がクローゼットを抜け出したら、と思うと恐ろしくてやはり部屋に帰る。クローゼットの前に座り込んで一日中見張った。
 そうやって少しずつ心を刻まれ、剥がされていく。
 生きているはずがない奈菜。しかし、生きているような気がしてならない不安、絶望、恐怖――。
 1週間ぶりにやって来て、やはり合鍵を使ってドアを開けようとした麻里を慌てて制し、クローゼットに張り巡らしていたガムテープの封印を剥がし、自分では麻痺していてわからないだけかもしれない、肉の腐敗による異臭を消すためにスプレーを撒き散らし、麻里を部屋に招きいれた。薄汚れた俺を見て麻里は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに、ただ微笑んで、スーパーの袋を掲げて見せた――。


「麻里……俺は……おれ、は……」
「――大丈夫」
 麻里の温かい身体が、俺の冷たい身体を包み込んだ。
「私がなんとかしてあげる。てっちゃんは何も心配しなくていいからね」
 何が出来るというのだろう。第一、麻里が何かしてくれる必要などない。全て俺の罪なのだから。
「麻里……まり…………」
 しかし俺は、麻里に縋りつくことしか出来なかった。今はただ、麻里の身体を強く抱き締め返すことしか。
 麻里が、俺の耳元で囁いた。
「でも――からね」
 その微かな声は、その時はまだ俺の脳に言葉として届かなかった。

 

 2日後。俺は未だ、クローゼットを開くことが出来ず、じっと扉を睨み続けている。
 携帯の着信音が、鳴り響いた。
 震える手で携帯を掴み、見ると、麻里からだった。
「……麻里?」
『てっちゃん。元気にしてる?』
 俺の告白を聞いた後にも関わらず、麻里の声は相変わらず明るい。――少し、不気味だった。
「どうしたんだよ……?」
『あのね、ついさっき、警察に電話したの』
 しばらく呆然として、唐突に衝撃が全身を貫いた。
「な……」
『奈菜を殺したこと、全部話した』
「ま、り……お前……」
 怒りとも悲しみともつかない感情が湧き上がる。だが、俺が麻里を責める権利などない。麻里は、正しいことをしたのだ。
「そう……か……」
 喪失感に似た、安堵の気持ちが生まれる。こんなことなら、すぐに話せばよかったと思った。奈菜の亡霊に苦しめられ続けるより、捕まって、正統な裁きを受ける方が、よっぽど平穏だったのだということにやっと気がついた。
「……ありがとう……麻里」
 心からの言葉だった。例え麻里が、凶悪な犯罪を犯した俺を軽蔑したが故にとった行動であったとしても、結局は正しい判断だったのだ。
『そんなこと言わないで』
「いや、本当に、ありがとう……俺、これでやっと……」

『――待ってよ。まだ楽になっちゃだめだよ』

 ――どういう意味だ?

「麻里……?」

『奈菜を殺したのは、私』

 ――一体、何を言っているんだ?

 麻里、何を言っている?

「麻里……」
『私が殺したの。自首したの――っていうことにしておいたから。これでもう何も心配いらないからね。てっちゃん』
 麻里は弾んだ声でそんなことを言った。俺は携帯を持つ手に強く力を込める。
「……麻里……待ってくれよ……俺は、そんなこと、望んでなんて……」
 こんな、こんな形で救われることに、何の意味がある。麻里が俺の罪を被るなんて、そんなこと……!
『いいのよ。私はもうすぐ死ぬから』
 電話の向こう側にいる麻里の言葉の意図するところが、全くわからない。目の前の景色が目まぐるしく変化していく。一体麻里は何を言って、何をしようとしているのか――
「麻里、わからないよ、何を言ってるんだ!?」
 額に汗が滲む。全身が震え、意識が遠のきそうだ。
『……だから、奈菜を殺した私は自首してから自殺を図るの。ちゃんと遺書も書いたよ。これでてっちゃんは絶対に疑われることないからね。だから安心して』
「ま、り、まり、待てよ……やめてくれよ……」
『奈菜と私のこと、一生忘れないでね』
「麻里……やめろ……!!」
『もう、ムリだよ……ちょっとクラクラしてきちゃった……深く切ったから……血が、止まらない……』
 呼吸の仕方を忘れて、無我夢中で酸素を求める肺が悲鳴をあげる。しかし俺は考える力を亡くし、ただ、今は麻里の声に集中することしか出来ない。
『……シチュー、おいしかった?』
「……なに……」
『あの味も、忘れないでね』
「麻里……!?」

『――全部知ってたよ』

 ――通話が切れた。すぐにかけなおすが、2度と麻里に通じることはなかった。
「麻里……麻里……」
 麻里の声。優しい声が――頭の中に甦った。あの時聞き取れなかった言葉が。
 今になって、こんな場面に衝突して、その絶望的な言葉が、深く澱んだ場所から引き摺り出された――

「でも……許さないからね」

 ――俺は、
 気がついた。
 クローゼットに目を向けた。
 クローゼットの中には、
 誰もいない。
 異臭などするはずがない。
 なぜなら、
 何もないんだ、
 確認するまでもない、

 ――麻里、

 なんてことを、

 あれは、

 あの肉は、

 あの肉は――


 全ての感覚を釘付けにするクローゼット。
 その扉が少し開いて、きっともうすぐ、彼女達がそこから這い出てくる。

 

 END